ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

しん’』うた。十六歳のとき、具足戒を開元寺(福建省泉州府晋江県にある。唐の玄宗が開元二十六年に各州に一寺ずつ建立した官寺)で受けた。十〈さんびん〈きん七歳のとき、鼓山(湧泉禅寺。福建省間県の東、鼓山の一峰白雲峰のそしょう麓にある)の平楚聾禅師に参禅した。当時、説法を行う法座は全盛を極め、禅林の重要な儀式典礼は、すべて講義され執行われていた。師おのれしょういんぶっしょうは己の心を苦しめ悩まし、正因仏性(正因、了因、縁因の三因仏性の一。諸法実相の理体であり、この理体があることによって仏果を得るわがみあんぎやむなことができる)を我身に責め求めた。出家行脚しても悟りが開けず、虚しくその責めを負っていていいのだろうかと、師は決然と自ら心に固しゅそく誓って、僧堂に端坐参禅すること六年。多くの修行僧の中に谷源岳首座だいかっしんぞうすや無方智普・大敵真の二蔵主がおり、当時師は飽参(充分に会得すること。悟りを得て参師の必要がなくなるという意)と号していた。そし貯〔師はこれらの諸先輩に〕従って、師家に朝参暮請して研績をこで、〔師が〕薬になるような教講を発すること〕も甚だ多かった。ちょうそうぽんし刷ちなみに世尊(釈迦)が長爪党志と論議(問答をして理否を分別討論がくにんすること)をする公案(学人に有意義な教示や暗示に富んでいる話を選んで、参禅学道の課題にしたもの)を検討したときのことであるが、「おまえにはどういうふうにわかるのか」と。師が今ま重ねた。真がいった。さに答えようとすると、真が手で師の口をふさいだので、師はうなずしんいた。普がある日質問していった。「〔禅における真理である〕清浄なる仏法の当体は、出現したりしなくなったりというような変化するものではない。それではどれが、その出没変化のない、清浄な真理のこうまレむ〈〔禅の真理について、さぞかし高遁な哲理と清浄無垢な当体か」と。心境というような答を期待する相手に〕師が答えていった。「泥だらLんけの猪。かさぶただらけの犬」と。並回がいった。「どんな道理を見て、すぐさまそんなふうにいうのか」と。師が答えていった。「このうちしんに、かえって道理を体得することができるのではないか」と。普は師せっこうじんずの答をいぶかしく思った。二十三歳のとき、師は断江省に入り、浄慈ぐごくちえほう・かい寺に行って、愚極智慧仏心禅師に謁見した。ちょうどそのとき法座の宝蓋でくわぜんしょうの落慶式に出会し、仏心和尚が上堂して行った説法の中に、禅床(住持の場合は、坐禅に用いる椅子)を下らないで王様をもてなすという句を引用して述べた件があった。師は、まず仏心和尚に頒(詩の形でげじゅ仏教教理を述べたもの。偏煩)を進呈し、その首句でいった。「天空をひきずり下して禅床とする」と。〔それを見て〕仏心がいった。「天空を、どうしてひきずり下すことができようか」と。師が答ていっ「所詮、他人に向かって手を貸してくれというようなことはあり一19一た。ますまい」と。仏心は喜んで、結局、師を僧堂に迎え入れた。師が仏Lっちゅう心の室中(師弟が伝法授受相伝を行なう室内)で師弟対坐のもと一対うくむくよ一で指導を受けるたびごとに、仏心は「有句無句は藤の樹に侍るが如L けし」という公案を提示した。師は、概して〔師家である仏心に対して〕自己の見解をはっきりと表明したので、たちまち大喝一声、〔反省をしっちゅううながす意味で室中から〕追出されるのが常であった。二十四歳のとき、揮木寮(侍香寮)に入った。二十七歳のとき、仏心が入滅した。ぞうすしゅそ・方山文宝禅師が席を継ぎ、師を蔵主(首座・書記に次ぐ禅院六頭首の第三位)に任じて、経蔵の管理を分掌した。概して師の言動を観察してみると、仏法をないがしろにするような言葉を発することはなく、必ず最も大切な参禅学道の一大事に向って発憤していた。その職務の任期も満了し、大勢の修行僧の中に埋没して参禅学道に精進すること