ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

ページ
34/108

このページは ふるさと潮来 第六輯 の電子ブックに掲載されている34ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

ふるさと潮来 第六輯

とになるので〕聞か倒れ、その樹にからまっている藤も枯れてしまって、ひとかたまりの焼香用の香〔材〕になってしまった方がよい。「無」になりきってしまうという意。〔指導〕伊藤東慎師(担)『法華経』れるもので、凡夫には知られないものであることを述べ、それ故に「方便品」にある語。仏法はただ仏と仏とのみに悟ら仏と成るには仏の踏み行ったあとを尋ね、その道を踏み行うことにあるという意。『禅学大辞典』〔文献〕(お)(部)(幻)〔文献〕玉村竹二『日本の禅語録八』『五山文学』E『円覚寺史』(謁)「清」は清浄大海衆(修行者集団) 「規」は規矩準縄の略。の略。禅宗では、儀式・規範のことを行持・作法などといい、これを規定しんぎにしたものが清規とよばれている。その最初は、達磨から八代目にはじようえかいはじようしんぎあたる百丈懐海がつくった。「百丈清規」があるが、現存しない。清拙和尚は、従来の諸清規がそのまま日本禅林に適用しにくい面を「大鑑清規」清規」(「大鑑小一巻。元禄十一年刊行)を撰述した。さらに元弘二年「大鑑解消しようとして、嘉暦二年( 一三二七)広清規」一巻。を著したが未刊である。〔文献〕『禅学大辞典』だいかんしんぎ(泊) 『大鑑清規』南禅聴松院本の付記に、建武申氏ご三三四)二月、予(無隠元晦)本師明覚禅師の塔を酒掃して、建仁の普光庵に寓す。東道の主は大鑑禅師(正拙正澄)なHVLιり。五月下旬、師(清拙正澄)独り庵所に来り、予に告げて日く。なんちしゅそけつよかへりみ「爾、後板〔首座〕の歓を補せ」と。予不棋を顧て、固辞すること『中世禅宗史の研究』(原漢文)L ゆるきぼう三たびを過ぐ。師強いて免さず。六月既望(陰暦十六日)職に就く。へきざいそうりんけみ予師に白し言く。「不敏にして郷村に僻在し、叢林の清要を歴さざこそは勺とそらんること久しく、挙措法度を詰ぜず。請ふ。師、教へられよ」と。即そでしんぎたづきじゅうとうはじゃうきち袖に『禅林備用〔清規〕』を携へて師に問ふ。従頭講じて百丈思の段に至り、師予に告げて同く。「我俳の日に死なんと欲す。仰蹴ぞ。本朝(日本)の禅林未だ百丈忌を作さず。深く歎くべきなり。斯わがわがきななの日に我死せば、我小師をして我忌を作さずして百丈忌を作さしむ」おもたわむと。当時予調へらく、戯るるのみ、と。別後六年、暦応巳卯( 一三としちくにわかふ三九)の歳、予筑の顕孝と在り。忽に許を聞く。臨終の日を問へば、ぜんああ果して是れ正月十七日なり。善知識(高僧) 、一念釜ロ観無量劫。鳴呼あまねそ誠なるかな。予斯の事を以て、遍く其の高弟小師に問へども、識るすくな者あるは鮮し。貞和戊子二ニ四八)の歳、予師の後席を継ぎ、南禅ぜいちょうほうけんぜいつうすぜんどあんしゅそとも重宝の貸(重宝賢費)都寺、禅居〔庵〕の雁門の序首座、借に来り’レスu・て斯の事を記すことを求む。明年貞和五年( 一三四九)、歳次己丑、ぴくむいんげんかレ正月十七日、建仁寺住持比丘無隠元晦謹識。〔文献〕上村観光『禅林文芸史語』-26ー(組)小笠原貞宗( 一二九四l一三五O)は頼朝に仕えた小笠原長清六世の孫で、南北時代の武将。信濃の守護として元弘の変には宮方の新田義貞に従ったが、二二三五年の足利尊氏の反乱には尊氏にくみした。射芸・騎乗の法を伝える家に生れた貞宗は、とくに騎射にすぐれた名手といわれ、犬追物を復活させた。大鑑禅師に師事し、その教化のもとに、晩年には武家礼節の書『三義一統』を著して小笠原流の基をつくり、剃髪して開善寺を創建したため、俗に開善寺入道と称されている。号は泰山、武家典礼の祖といわ