ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

今日なお脅はもとより内論も噴んじられている。HKUは各休をよくしたが、やはり真髄は行革休にあるという。山明日叩山むかで実に常々とした竿航である。律事に迫われて、どんなに忙しい時でも決して詩作を廃したことはなく、漢詩においても相当の力量を有する。もっとも父は江湖詩社を主宰する市河寛斎であってみれば無理からぬことではあるが。北別池五山、大窪詩仏は寛斎門下である。江戸末期は漢詩が盛んで主として唐詩よりも米詩、明詩、清詩が盛行した。F町宮崎一家駅前官民一勅選議員錦鶏抵候盟一一巌谷修書ちょうみんと〈た〈こうむ『兆民徳揮を蒙りばんこいれいあお寓古威霊を仰ぐ』この臓の文字は幕末から明治にかけて、明治政府の高官でもあったわが国を代表した書家の一人で、巌{t修の邸宅になるものである。この峨は鍛谷修がF町の須田括太郎氏の祖父仙之助翁の依頼をうけて書かれたものであることは、その添状を見れば明らかなところである。巌冶よ修は天保五年( 一八三円年)生まれ、明治三十八年残(一九O五年) 、書家で漢詩人、字は誠卿、士口梅・迂堂・金粟道人などの号がある。近江水口落の侍医玄通の子、漢籍・医術を学び幕末の政治運動に入り、維新後明治政府に仕えて諸官を歴任し、元老院議官・貴族院議員となり宮中に出仕、錦鶏の聞紙候となった。一六居士と称した。書風は明治十三年(一八八O年) 来日した陽守敬の六朝風の書を学ぶに及んで従来の風を一変し、同門の円下部鳴鶴らとともに晋唐の法帖を主とする帖派を圧倒し、日本の書風をも変革させ、北碑の書風を同州顕揚した。明治・大正期の著名な童話作家巌谷小波は修の三男である。織の文字については書家で、しかも漢籍に造詣深く、且つ、明治政府の高官でもあったことを考えれば出典はなく、恐らく自作のものではなかろうか。意味は『万民は仁徳のめぐみに喜び、万世変ることなく、この蹴めみレっしくも尊い御稜威を仰いでいこう。』ということであろう。先日、中国は北宋の人で、学者で、政治家で、しかも文章家としても有名な欧陽惰(一OO七J一O七二年)の伝記について調べる必要があった折に、その詩文集の部分のみを特に『六一居士集』略して『居士集』と称するものであることを知った。欧陽惰が六一居士と号した謂れは分らないが、明治の日本で巌谷修がそれを逆にした二ハ