ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

ページ
74/108

このページは ふるさと潮来 第六輯 の電子ブックに掲載されている74ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

ふるさと潮来 第六輯

ごりょうえれた『御霊会』がその起源とされている。ちなみに八反神社は明治維新まで祇園社と称していた。これは明治になって初めて神仏分離が行われたためである。『会』とはもともと宗教的なもので、特に仏教的なものであったのである。この臓の文字も明らかに神仏混清時代の名残りを遣すものであって、完全に神の祭事としてのみのものではない。祇園信仰は祭神は牛頭天王である。この牛頭天王という神はもとは祇園精舎の守護神であったが、除疫神として日本に入り、祇園社として祭られるようになり、全国に分布したものである。神道系の説としては牛頭天王は、即ち素斐鳴尊であるとし、また大己貴大神であるともいわれ定説はない。くしなだひめのみこといざなみのみことなお、素驚熊野神社の祭神は素斐鳴尊、奇稲田比売命、伊弊再命など五柱である。なお、右の文中における特殊語を以下に注解として掲出し併せて窪木清測先生についての解説を付し理解の一助としたい。O祇国会京都祇園社乃ち八鹿神社(明治維新までは祇園社と称していた)の祭礼。貞観十一年(八六九年)に天下に疫病の流行した時、牛頭天王の崇りであるといって祭りを営んだのが起原である。祇園御霊会の略称。O祇園ぎじゅぎっこど〈おん正しくは『祇樹給孤独園』というが、略して前と後をとり祇園といっている。紙樹とは紙陀太子の苑林の意で、これを給孤独の称ある須達長者が太子から買い受けたので紙樹給孤独園という。これを釈尊に寄進し、ここを説法の為の一大道場とした。これが所謂『祇園精舎』である。ここの守護神が牛頭天王ということである、すなわち『祇園神』である。O牛頭天王祇園天神とも称し、京都祇園社の祭神である。もとはインド祇園精舎の守護神であるとするが、異説もある。『祇園牛頭天王縁起』によれば牛頭天王は東方浄瑠璃世界の教主薬師如来の垂迩で須弥山中腹豊韓国王武苔天王の太子であり、その姿は頂に三尺の牛頭があり、三尺の赤角をもっといわれている。又神道系としては本文中に記したように素養鳴尊に仮託する説もある。O窪木清閑先生-62-宝暦十二年( 一七六二年)十月生れ、文政十二年( 一八二九年)八月二十八日残、歳六十八。香取郡誌に載するところの水戸、小宮山昌秀(楓軒)撰による竹窓先生墓表によれば『先生詩は清淵、通称太郎衛門、其の先は判官代藤原清買に出づ(中略)世々香取郡津宮村長たり。父清英、香取氏を妻り先生を生む。少にして新四郎と名づく、幼にして読書を好む、年七、八歳、其の父より古文孝経を授かる。十一歳郷先生松永呑舟に従ひて句読を受け、小学・四書・五経皆諦を成せり』以下略:::とあって少時より如何に俊秀であったかが分る。下総に過ぎたるものが二つある、『成田不動に久保木幡龍』とまでいわれた碩学で、伊能忠敬先生とは特別の間柄であったようである。ちなみに宮本茶村先生より三十一年の年長であった。お互に延方郷校に出講されて深交があったようである。幡龍は初{子