ブックタイトルふるさと潮来 第六輯

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概要

ふるさと潮来 第六輯

の光に照らされていただけであったろうか。当然のことながら、日の出を待つ問、人々は、月を意識することがあったであろうことは、容易に想像されることであり、おそらくは、月への感謝、崇拝、祈願が行われたと見るのが自然である。とすれば日待も月待も、十五日に行われた共通の行事と言えるであろう。それは「日待月待」などと言われることからも明らかである。ここでは、日待について述べることは本筋でないので、日待については、後の機会に譲ることにし、ここでは、日待も月待も、はじめは神事的行事であったことを確認するに留めたい。月待の信仰は、やがて仏教的に修飾されて行く。在来の月待信仰から、仏教的になって行く具体的なものとして、月待板碑がある。「埼玉県浦和市三室の双式板碑の文明十七年のそれ大護八郎氏は、は、上方天蓋の下に勢至菩薩像を陽刻し、左右及び下方に、天子、本地大勢至、為度衆生故、普照四天下、月待供養、文明十七己巳十一月廿三日、九郎二郎、妙仁禅尼、道因禅門、正喜禅門』の銘が(日本の石仏第二二号)といわれているように、室町時代に『帰命月ある。」なると、月待板碑の主尊(勢至菩薩)と有縁日( 二十三日) とがはっきりとしてくる。月天子とは、月宮の天子で、名を宝士口祥といい、勢至菩薩が姿を変えたものである。これに対し、日天子は、太陽神で、観音の化身である。)また、平安時代は月見と言えば十五夜であったが、後期になると、十五日は、阿弥陀如来を主尊としてあてている。一方、古くから、女性の生理と月、月と女性の関係は深いとされ、女性中心の神まつり、月待信仰が行われていたことが想像されるが、室町時代からは、男性中心の月待となって行くのである。そのことは月待板碑の名が禅門など、男性の名で記されていることから明らかである。それもおそらく、身分の高いものに限られていたのであろう。ところが、江戸時代になると、次第に女性の登場を見るのである。女性のみの塔の造立が目立つようになってくるのである。月待の主尊も、阿弥陀や勢至菩薩は減少し、それにかわって、如意輪観音が圧倒的に多くなってくるのである。月待塔二十三夜塔一76辻地区にある石塔