ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代E『国造本紀』にも「仲国造」と記されている。「仲」は「中」と通用すなかる文字なので、常陸の地域の中心的位置を占める国ということで「中国」と呼ばれたことが知られる。その「中」が「仲」と表記されていたおおとものまめよしだのさとのひとことは、藤原京跡出土木簡に「口部口口大部真目仲郡吉田里人」と墨室目されているので明らかである。この木簡は常陸国「仲郡」吉田の里のにえ人である大部真目が「貢進した賛(天皇や朝廷の食膳に供する水産物)の付札である。『常陸国風土記』には、奈良時代の那賀郡の範囲を「東は大海、南は香島、茨城の郡、西は新治の郡と下野の国との堺なる大き山、北は久慈の郡なり」としている。だいたいこの範囲は、現在の水戸市、ひたちなか市と東海村、那珂町、大宮町、緒川村などの一部、御前山村、桂村、常北町、内原町と茨城町の北部、友部町を含む地域に推定されるのである。大化改新以前の那賀国は、それよりも広い地域を占めていたのである。『常陸国風土記』香島郡の条に「孝徳天皇の己酉(六四九)に「下総う釦ゆかみ国の海上国造の部内」の軽野より南の一里と、「那賀国造の部内」寒田より北の五里を割いて、新たに香島郡を置いた、とみえる。軽野は現在の神栖町から波崎町一帯の地域であり、寒田は現在の神栖町北部から鹿藤原京跡出土木簡嶋市南部の地域に当たる。そうすると、大化五年(六四九)以前は香島郡の大部分が那賀国の領域であったことが知られる。みずのとうしまた行方郡の条に、孝徳天皇の突丑年(六五一二)に「茨城の地」八里と、「那珂の地」七里、合わせて「七百余戸」を割いて新しく行方郡を8置いた、とある。したがって、行方郡の建郡にあたっても那賀国の一部第1 -25図が分割されたのである。そうすると、大化改新以前の那賀国は、南は北浦西岸地帯から北は那阿川の河口をすぎて、久慈川下流南岸の村松、白方(東海村)に至る広大な範囲を有していたのである。そこには北浦とその周辺、澗沼と酒沼川、那珂川流域、真崎浦や久慈川河口などの水辺環墳と広大な沖積地や長い海岸線が存在していたのである。那賀国は恵まれた水辺環境を有していた。那賀国の古代の水辺環境領域であった香島(鹿島)の地名も河口や海と関係がある。カシマの地名は常陸に限らない。『和名抄』のとの〈にかしまには、「能登国能登郡加嶋郷」がみえる。七尾湾と富山湾に面した地で、えんぎしきつるがのっ『延喜式』主税には「加嶋津」とあり、敦賀津(福井県敦賀市)とともに日本海航路の拠点であった。静岡県富士市付近も「賀島」と呼ばれていこの地は富士川と潤川河口地域に挟まれ、駿河湾に面している(『吾fこ妻鏡』治承四年十月二十日条)。静岡県天竜市付近も鹿島と呼ばれていた。天竜川と二俣川が合流する地で、河口港として栄えた。和歌山県日高郡南部町の浜にも、鹿島と呼ばれる小島がある(『万葉集』巻九)。九州の佐賀県鹿島市は古代には「鹿島牧」が置かれた地で、有明海に面した港である。カシマの地名はいずれも海や河口に沿った港と結びこのよ〉フに、つく地域に分布しているのである。ひぜんのくにふどききしまカシマの語源も水辺環境と結びついている。『肥前国風土記』杵島郡の条に、景行天皇が船をとめたとき、船鮮献(船つなぎの杭)の穴から冷