ブックタイトル潮来町史
- ページ
- 101/1018
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている101ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている101ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
潮来町史
水が自然に湧きでた。または船が泊まったところが、かししま島になったので、天皇は「この郡は鮮耽島の郡と呼ぶがよい」といった。包まいま杵島の郡と呼ぶのはカシシ7が誰ったのである、とみえる。ひとりでに一つの}の地は有明海に面し、杵島郡の南隣りが藤津郡鹿島(佐賀県鹿島市)と呼ばれている。したがって、本来は船をつなぎとめる杭を打つ島(場所)を意味するカシシマが、一方ではキシマ、他方はカシマに転化したのである。大和朝廷による東国進出は、もののぺ常陸には物部氏に率いられた水軍が進んできたようである。『常陸国風つ〈はうねめのおみつ〈はのみこと土記』に筑波国の名は、采女臣の同族(物部氏の同族でもある)筑箪命のしだたか名をつけた、とあり、筑波・茨城の地を分割して建てられた信太郡の高ふつのおおかみ来の里に、物部氏の守護神である普都大神が天から降った、四世紀末から五世紀にかけてはじまる。とみえるのも物部氏の活躍を反映している。物部氏の水軍は船で震ヶ浦の入海に進み、現在の阿見町竹来一帯に拠点を構えたのである。また桜川河口にあたる大津(現在の土浦市)から桜川をさかのぼり筑波の地を平定したのであろう。くじほんぎ物部氏の伝承を記した『旧事本紀』の「天神本紀」にぎはやひのみことあまつ先神である能速日尊は三二柱の防衛神、二五部の天物部をしたがえて天ヂ』や」阜、』i物部氏の祖「降船主る長まこ」とEかに需Iな己;りつ「て船主い子こるし一。そのとき天降りの一行に供奉したもののなかに、として、航海に関係深い神々の名があげられて大和朝廷の支配いる。物部氏の祖先神の天降りに、船長、梶取(航海長)、船子(船員)が物部氏が水軍と関係深い氏族であったことを物語っている。『常陸国風土記』久慈郡薩都の里の条に、昔、この地にっち〈もくずうはかみちゅうめつ土雲という名の国栖がいたが、兎上命が兵をあげて諒滅してしまった、したがったということは、第2章とみえる。この説話の時代背景は明らかでないが、大和朝廷の東国経略を反映していることは疑いない。『新編常陸国誌』は巻一で兎上命を崇神天皇のかしこお皇子としているが、巻九では伊香色雄の子とする。伊香色雄は韓速日尊の後商で、物部氏の祖とされている人物である。う包かみを下総国海上の国造の祖とする説がある(吉野裕訳『風土記』)。海上国は}れに対して、兎上命千葉県海上郡の地で、現在の市原市に属しており、養老川河口一帯に当たる。東京湾に面しているので、古代の港であったことも考えられる。物部氏の水軍が東京湾から久慈川河口に至り、久慈川をさかのぼってきた可能性がある。兎上命が兵をあげて、土雲という名の国栖を諒滅した、という説話があるのも、物部氏の水軍が久慈川から里川、山田川の流域に進出してきたことを思わせる。『国造本紀』に、久自(慈)国造は、しがのたかあ忽ほみよむらじ志賀高穴穏朝の御代(成務天皇の世)に物部連祖伊香色雄命の三世の孫、ふ江せのす〈ね船瀬足尼を国造に定めた、とみえる。そうすると、久慈国造には物部氏の一族が任命されたことになる。かこ「船瀬足尼」の「船瀬」は、大輪田船瀬(現在の神戸港)、小児船瀬(兵庫県加古川市・加古川河口の地)が示すように、河川港と関係深い名である。また船瀬には、船の停泊地のほかに「造船瀬所」とも呼ばれるものもあり、造船所、物資集積地の意味もある。古代の港には河口や河川の合流点を利用するものも多かったのである。そういう水運の要衝をめざして、物部氏が進出してきたのである。古代の霞ヶ浦は、現在よりもはるかに内陸部に湾入していた入海であった。鹿島はちょうど扇の要のような位置にあったので、大和朝廷は物資を徴発して輸送できる鹿島の地を東国進出の拠点とし、香島の天の大神(タケミカヅチ)を杷ったのである。タケミカヅチの神は『古事記』『日本書紀』の神話では、出雲平定にその名がみえる。神武天皇の東征あまてらすでも天照大神の命をうけ、霊剣フツノミタマを下して天皇の軍を救った89