ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代第三節部民の分布E大和朝廷の地方への進出や支配の範囲を調ぺる重大和朝廷と部民制要な手掛りとなるものに部の分布がある。部にはいろいろなものがあるが、その多くは朝廷や豪族が支配していた民衆の集団で、農業、漁業、手工業などさまざまな職業をもち、自分の居住地で生産した品物を貢納したり、朝廷に出仕して特殊な技能で奉仕したりした。朝廷に所属する部の管理者を伴造と呼び、おぴとみやっこむ勺じ豪族が任命され首、造、連などの姓をもっ者が多くみられる。伴造には地方に居住して部を管理するものと、中央でこれを統轄するものがあった。部を所有する豪族はあまり多くはなく、部民の数も朝廷所属の部に比ぺると少なかった。部の起源は五世紀以降多くなった朝鮮半島からの渡来者により、百済の部の制度が伝えられたのにはじまるという説があるが、前期古墳との結びつきを考えれば、部の分布によって知られる朝廷の地方支配は五世紀前後にまでさかのぼることができよう。また天皇、皇后の宮号や后妃、皇子の名をつけて皇族が私有した部に名代、子代がある。名代は天皇、后妃、皇子などの名をつけた部で、子代は皇子のために設定された部とする説が有力である。名代・子代の部の分布を調べることによって、皇室の勢力範囲やその地域との関係を知ることができる。『茨城県史料』(古代編)や『鹿の子C遺跡漆紙文書』(本文編)、考古資料などから復原できる常陸国内の部の分布は、次のとおりである(士山田誇一「国造の支配」『茨城県史原始古代編』)。はせっかささぎうら新治郡に丈部、三村部、雀部、占部、鴨部の分布が知られる。丈部は92宮廷で「駆せ使」われたり、宮廷内外の警護・奉仕に従事した部民である。三村部の性格は不明である。雀部は仁徳天皇の名代とされるものである。占部は卜占に関係ある部で、東国に分布するのが占部、西国に分布するのが卜部である。この違いは占部の卜術は鹿卜、西国は亀トによみわのきみったからである。鴨部は三輪君の一族で大物主神の祭杷に関係した部民といわれる(太田亮『姓氏家系大辞典』)。まかみしらが忽おとも真壁郡に真髪(白髪)部、大伴部の分布が知られる。真髪部はもとは白せいねい髪部と呼ばれたが、延暦四年(七八五)に改称されたものであり、清寧天皇の名代とされる。大伴部は大伴氏の部民といわれるが、天皇の供膳なかしわでのおみどに従事した膳臣の部民である膳大伴部の可能性がある。なかとみたじひ筑波郡には壬生部、丈部、中臣部、多治比部、三村部の分布が知られる。壬生部は皇子の生活の資として敏達・推古朝ごろから設定され、それまで個々の皇子ごとに定められていた子代の部を改めて、特定の皇子のために置かれたものといわれる。中臣部は神の託宣をうけとめる中臣氏の部民と考えられる。多治比部は、反正天皇の名代とされるものである。河内郡には八田部、鳥取部の分布が知られる。八田部は仁徳天皇妃のやたのわかいらつめ八田若郎女の名代といわれる。鳥取部は白鳥を捕獲し、貢上するために置かれた部である。わかさ〈勺信太郡には物部、生部、大伴部、若桜部の分布が知られる。物部は物部氏の部民で、戦時にあっては物部氏に率いられて外征・内征軍を組織し、平時にあっては上番して宮廷内外の警備・警察などの任に従事した。生部は壬生部と同じで、ミブベとよみ皇子の生活の資として設定されたといわれる。若桜部は履中天皇の名代とされる部である。