ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代以上のように、常陸における部の分布をみると、名代・子代の部が多いことが注目される。応神天皇の皇子宇治稚郎子の名代とみられる宇治部が那賀郡に、仁徳天皇の名代とみられる雀部が新治、行方、那賀郡に、仁徳天皇妃の名代とされる八田部が河内、那賀、久慈郡に、履中天皇のE名代とされる若桜部が信太郡に、反正天皇の名代とされる多治比部が筑波郡に、允恭天皇の皇后の名代とされる刑部が久慈郡に、允恭天皇妃の名代とされる藤原部が郡名未詳に、雄略天皇の皇后の名代とされる日下部が那賀郡に、清寧天皇の名代とされる白髪部が真壁郡に、仁賢天皇の名代とされる石上部が那賀郡に、敏達天皇の名代とされる他田部が行方郡に設定されていたことが知られる。さらに皇子のために設定された壬生部、生部、湯坐部が信太、行方、筑波、茨城、那賀郡に分布しているのである。}のことは、常陸は五世紀はじめころから部の設定を通して、大和朝廷と結びついていたことを物語っている。新治郡八郷町柿岡の丸山古墳、西茨城郡岩瀬町の狐塚古墳、行方郡玉造町の勅使塚古墳、稲敷郡桜川村の原一号墳、つくば市の山木古墳など、茨城園、新治国、筑波国の国造の領域に存在する前期古墳と、雀部、八田部、多治比部、白髪部などの五世紀前後に設定された名代の部の存在は関連がある。常陸は四世紀末期ごろから大和朝廷との関わりをもったことになる。『万葉集』巻二Oに、常陸国の防人であった那賀郡の舎人部と建部上丁大舎人部千文、茨城郡の若舎人部広足の名がみえる。常陸国戸籍の断簡にも大舎人部佐美足がみえる(『大日本古文書』一)。また水戸の吉田神社の寛治四年(一O九O)の文書に「大祝大舎人」、建久三年(一一九二)の文書に「権祝大舎人」とあるので、天皇直属の軍事力ともなった舎人部が那賀郡に置かれていたのである。さらに鹿島護摩堂の康永二年(一三四三)の文書に、「常陸国行方94郡若舎人郷」がみえるので、茨城郡、行方郡に若舎人部が置かれていたのである。若舎人部も大舎人部と同じように、天皇、皇子の側近の軍事力を供給した部である。正倉院調庸関係墨書銘(松島順正編『正倉院宝物銘文集成』)に、「常陸国行方郡逢鹿郷戸主建部身麿」とあり、『常陸国風土記』行方郡の条にも、おころ大生の里に建部室許呂命がいた、と記されている。建部は『日本書紀』景行天皇四十年条に、日本武尊のために「武部」を定めた、とあるので、日本武尊の名代の部と考えられるが、現在では建部を軍事的職業部とみる説が強い(直木孝次郎『日本古代兵制史の研究』)。やはずのうじま同じく『常陸国風土J記』行方郡の条に、継体天皇の御代に箭括氏麻多智という人が、郡より西の谷の葦原をきりはらって、新たに田を聞いた、とみえる。箭括は『日本書紀』安康天皇即位前紀に「太子(木梨軽皇子)は穴穂皇子を襲おうとして、ひそかに兵を用意された。穴穏皇子も、ややそれゆえに、穴穂括箭・軽括箭が、歩JEた兵を起こして戦おうとされた。V}のときにはじめて起こったのである」とみえる。「古事記』允恭天皇の段にも、「兵を備へ作りたまひき」として、軽箭・穴穂箭があげられているので、箭括氏は戦力と密接な関係があり、行方郡に置かれた建部と結びつく軍事的民族と思われる。箭括氏麻多智が「甲鎧に身を固め」、仕を手に取り持って、夜刀の神を打ち殺し追放した、とあるのも、軍事的氏族の反映がみられる。『常陸国風土記』行方郡田の里の条には、おきはがた」ワしひめこつひ息長足日売皇后(神功皇后)の時、この地に名を古都比古という人が住んでいた。三度にわたって韓国に派遣されたので、その功労を重視して、}の地の田を賜わった。だから田の里と名づけたのである。