ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代現在の行方郡玉造町の「玉造」という地名は、玉造部をめぐって}までさかのぼることができるのであろうか。中山信名は、コ打方郡、久慈郡、共ニ玉造村アリ、けだし蓋玉造部ノ居ル処ナリ」とし(『新編常陸国誌』巻九)、古代の玉造部と結Eびつけている。『群書類従』所収の常陸大嫁系図によれば、大援の一族である吉田清幹の次子忠幹が、行方郷に拠って行方氏を称した。その子景幹の四男幹政が玉造に拠って、玉造氏を称したといわれる。鎌倉時代初期には、玉造の地名があったのである。建武二年(一三三五)九月の土岐頼貞寄進状に、「奉寄進常陸国玉作郷内田地参町事」とみえるので(「円覚寺文書」)、「玉作郷」とも書かれていたのである。中山信名がいうように、玉造の地名は玉造部に由来するのであろう。玉造部は玉作部とも書き、祭杷や装飾用の玉を作った部民である。現在の久慈郡金砂郷町玉造にある玉造遺跡は、山田川流域にあり、昭和四十年十二月に国学院大学によって発掘調査された。六世紀に属する住居跡と祭杷用の鏡や剣を模した石製品が出土しただけで、玉作工房跡は発めのう見できなかった。付近の山地には環瑞の原石が採取され、畑から璃瑞の破片が出土するので、今後の再調査に期待されている。『常陸国風土記』しどりめか久慈郡の条に、静織の里の北に小川があり、丹い石がまじっている。そへんぺきの色は璃碧に似ていて、火打ち石として使うとすこぶる好い。そこで玉川と名づけている、とみえる。玉川からは、現在も駕瑠を拾うことができる。行方郡の玉造にも、玉作工房が存在していたのではないだろうか。『常陸国風土記』行方郡の条には、行方の里に倭武天皇の持っていた玉と結びつけられた「玉清の井」のあったことを記している。玉造部との関連が推測される。ど土浦市の鳥山遺跡から、四世紀に属する玉作工房跡が七つも発見されまがくだている。出土の玉類は、勾玉、管玉および未完成品、剥片などで、玉材96は碧玉質や璃瑠材が多い(寺村光靖『古代玉作形成史の研究』)。『常陸国風たか〈あしわらのUかっくに土記』信太郡高来の里の条に、葦原中津国を巡行されて、山や河の荒ぶる神々をやわらげ平定された普都大神が、天に帰ろうとお思いになった。よろいほこたてつるぎそこでお体につけていた甲、文、楯、剣、でも、そして手に持っていた玉類まあめ}の地に留め置き、白雲に乗って蒼天に帰すっかりぬぎすててり昇って行かれた、とみえる高来の里は、}の鳥山遺跡に近い。}の遺跡の工房で作られた玉は、普都大神の祭杷に用いられたのではないだろちつか。稲敷郡江戸崎町の上の台遺跡からも、玉作工房跡が発見されている。利根川の北岸にあり、南岸には千葉県香取郡下総町の大和田玉造遺跡群があり、相互に望見できる地である。管玉、臼玉の未完成品などが出土している。この遺跡で作られた玉類も、普都大神の祭杷と関連するのだろ3フか。