ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第三章大生古墳群の成立第一節土師器と須恵器規格化された土器茨城県の弥生時代後期(三世紀)終末には、県北部じゅうおうだいの多賀郡十王町十王台遺跡から出土した土器をかみい忽よし標識とした十王台式土器や県南部の土浦市上稲吉遺跡の住居跡から出土した土器を標識とした上稲吉式土器が分布している。それらの土器は、「ムラ」と「ムラ」での物々交換の時の入れ物ゃ、けん婚姻の贈り物などの交流によって小範囲で移動しており、栃木県の二軒やたる屋式土器や群馬県の樽式土器、南関東の土器が入り込んでいるにもかかわらず、他地域の影響をあまり受けず、それぞれの地域において、独自的な形や文様が受け継がれていった閉鎖的な土器である。ところが、大生古墳群の成立世紀を境にそれらの土器は姿を消し、全国的に土師器が出現する。土師えんぎしき器の名称は、『日本書紀』や『延喜式』の中に記載されており、古墳時代以降に使用された無文の素焼きの土器を総称している。ごりょう古墳時代前期(四世紀)の関東の土師器は、埼玉県東松山市五領遺跡の住居跡から出土した土器を標識とした五領式土器という編年名がつけら第3章れており、関東各地でほぼ同じ形状・器種を示している。その中に遠く畿内や東海地方西部(特に多い)の土師器が見られる。}の現象は、今までの時代にはほとんど見られないことであり、ご)に大きな画期を見いだすことができる。}れは大和政権の東国経営の現れであり、つまり、統一の過程で東海地方西部の人びとが大いに関与したことを示している。あれほどまでに閉鎖的な弥生人が無条件でスムーズに古墳文化を受け入れた裏には、大和政権が武力だけで統一していったのではなく、東海地方西部の人びとを関東の弥生の「ムラ」の中に、あるいは独自の「ムラ」を統一のための前線基地として作らせ、祭杷儀礼等の心的面を全面に押し出し、波状的に進出させたところにある。畿内や東海地方の人びとは、自分たちが使用していた多種多様で優れた土器(タタキ目のある丸底聾やS字状口縁台付費など)を持つできたり、移動先の土地でそれらを作った。また、瀧概土木技術や製鉄技術、高塚古墳の築造と信仰など高水準な文化をもたらした。それらは、生産力の四増大、ひいては人口の増加をもたらし、有力な豪族をも生み出し、「ムラ」から「クニ」へと集落形態を変化させていった。また、閉鎖的で文化・技術が停滞していた弥生人にとっては、大きな驚きと同時に尊敬の念、会得しようとする欲望が現れ、移住者を技術の指導者や祭り事を司る者として受け入れ、積極的に同化していったものと恩われる。現在、町内ではこの時期の住居跡は発見されておらず、全容は不明である。しかし、隣町の神栖町ふたど塚遺跡からは前期の竪穴住居跡六軒97