ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代土師器が出現してから、約一五O年後の古墳時代中期の工人の活躍中頃に須恵器の生産が開始される。須恵器は、登り窯で一二OO度前後の高温で焼かれた硬質の土器であり、初E期の須恵器は、朝鮮半島から渡って来た工人達によって作られた。彼らすえむらは、大和政権直轄の専業集団であり、大阪府泉北の陶巴古窯跡群を中心とする地域で生産を開始している。昭和四十年(一九六五)に始まった陶邑古窯跡群の発掘調査は、須恵器生産の操業時期を明らかにしたばかりではなく、須恵器の詳細な編年研究がなされ、五世紀から一O世紀に及ぶ須恵器の変選がつくられた。また、初期須恵器の出土状況を見てみると、一般集落から出土することは少なく、器種も限定されるのに対し、古墳からの出土が多くみられ、器種も豊富であり、初期須恵器が主に祭杷に使用されていたことを物語っている。県内にみられる初期須恵器は、ほとんどが五世紀後半のものであり、鉾田町平出久保遺跡(杯、蓋)や牛久市ヤツノ上遺跡(高杯、杯、蓋、ップ形、臨)等三O前後の遺跡から少量出土している。特に、これらの須恵器は細かく打ち砕かれているものが多く、家を焼いた後に家を埋めているのが多くみられることから、家を廃棄する時に祭把をおこなったものと思われる。また、}れらの須恵器がどこで生産されたかは不明なものが多いが、良質で焼きの良いものが多いことや、県内でこの時期の窯が確認されていないことから大阪府の陶巴古窯跡ゃ、愛知県の東山古窯跡で生産された可能性が強い。町内でも、制の大生原遺跡から初期須恵器の杯(陶口巴高倉第二O八号窯か第四七号窯の時期)が採集されており、今後の調査が待たれる。六世紀になると中央で技術を習得した者や工人が地方に移り、地方窯が定着し、製作技術や器種に地域性が見られるようになる。茨城県では、102現在のところ六世紀代の窯跡は発見されていない。ぱとうね七世紀になって、常陸太田市幡山第二号窯跡と東海村馬頭根窯跡の二か所が確認されているだけである。古墳や集落からは、それらで生産された須恵器は現在ほとんど発見されておらず、短期の生産で、しかも、小範囲への供給であったものと思われる。一般集落での須恵器の出土量が増加してくるのは、八世紀に入ってからであり、数十基もの窯跡が確あぼっけ認されている水戸市木葉下窯跡を始め、県内各地で確認されつつある。:1