ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代に比べ質や量が劣ることが特徴である。中期古墳この時期の古墳は、ぽんてんやま全長二ハ0メートルの常陸太田市党天山古墳や全長九五世紀の古墳を中期古墳と言う。E六・四メートルの大洗町鏡塚古墳、全長一八六メlトあたどやまあしまやまルの石岡市舟塚山古墳をはじめ水戸市愛宕山古墳、下館市芦間山古墳等が挙げられる。それらの古墳に少し遅れて、常陸太田市の星神社古墳や大洗町の車塚古墳等の円墳が出現する。この時期の古墳は、前方後円墳が主流で墳丘の巨大化が認められる。それらの古墳は、震ヶ浦沿岸や那阿川流域等の交通や軍事の要所また、に位置しており、葬られた人は、各地域の有力豪族と考えられる。六、七世紀の古墳を後期古墳という(特に、七世紀の後期古墳古墳は終末期古墳と呼ぶ)。日本の古墳の九割以上が、}の時期に築かれた古墳である。それだけ多くの古墳が築かれる裏には、墓制に大きな変化があったことを示している。今まで、豪族等の特定階級だけに許されていた古墳築造が、ある範囲の階層の者までその築造が許されたか、それだけの権力を持った現れと考えることができよう。また、副葬品においても日常使用していた土器が埋葬されるようになり死後の世界観が変化したものと思われる。そのようななかで、県内や町内でも例外なく多くの古墳が存在している。前方後円墳である潮来町の子子舞塚古墳を中心にする但の大生西部古墳群や玉造町三昧塚古墳、目立市西大塚古墳、鹿嶋市宮中野古墳、帆立だいにちづか貝式古墳の玉造町大日塚古墳等が挙げられる。本期は、中期古墳が大型であるのに対し小型化が進み、小型前方後円墳と小円墳群からなる群集墳が増加する。埋葬施設の形態は、粘土郭や木棺直葬から石棺に変化する。また、墳丘には埴輪が置かれるようにな106る。特に、形象埴輪はさまざまな形があり、製作技法にも茨城独自のものが見られる。後期から終末期にかけては、勝田市虎塚古墳や関城町船玉古墳のように石室内に色彩による絵が描かれているものも見られる。このような装飾古墳は東日本では珍しいものであり、熊本県を中心とする地方にその分布が見られることから九州地方との関係が考えられている。七世紀以降終末期になると前方後円墳は姿を消し、千葉県から県中央おおとのづか部にかけては潮来町大殿塚古墳や水戸市吉田古墳等のような方墳が見られるようになり、埴輪の副葬もなくなる。また、県北部では、六世紀終末から七世紀にかけて台地や丘陵の斜面に横穴墓と呼ばれる岩盤に横穴を掘った墓が造られるようになる。横穴墓は、閉塞石を取り除けば容易に追葬ができ、より家族墓的性格なものであるとされている。以後、仏教文化の影響による火葬の風習や大化薄葬令(六四六年)により、古墳は姿を消し、新しい墓制へと変化して行く。潮来の古墳といえば国学院大学教授大場磐雄の研究をみ町内の古墳てゆかなければならない。大場は、昭和二十七年から昭和三十五年にかけて旧大生原村の子子舞塚等の古墳を発掘調査している。そのさい、古墳の調査ばかりでなく大生神社の縁起等、潮来町の文化史に至る研究を行っている(潮来町教育委員会『常陸大生古墳群』)。また、報告書の中では鹿行地域の古墳の数も克明に記録している。それによると、町内には大生西部古墳群をはじめ、おの大生東部古墳群、引の棒山古墳群等一二の古墳群と七基の古墳を確認している。一地域としては膨大な古墳の数であり、古墳時代の当地域の支配力がいかに大き