ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
かったかを物語っている。その古墳の数も、時代の流れと鹿島開発の影棒山古墳群本古墳群は、北浦に面した舌状台地の尾根部に並んで立地しており、二基の前方後円墳と七基の円墳によって構響とにより、多くの古墳が消滅した。現在では、古墳群としては一二か所とも残っているものの、fこそのなかのいくつかの古墳は消滅してしまっ成されている。その中でも、大賀の原辰太郎によって明町内にある古墳の様相を発掘調査や測量調査等によって明らかになっム口、治四十年(一九O七)十二月に掘り出された人物埴輪や須恵器の子持ち器コップ形土器、横瓶等は逸品であり、明治四十二年に東京国立博物たものを中心に見ていきたい。大生古墳群の成立第3章館と帝国大学(現在の東京大学)に寄贈されている。}れらの造物は、直径一五メートルほどの円墳である棒山二号墳(人形塚)からの出土であるとされている。特に、子持ち器台の出土は現在のところ県内ではれのみである。子持ち器台は、東海地方棒山2号墳出土の人物埴輪に多く出土しており、その地方の人々と何らかのかかわりがあったものと思われる。棒山一号墳は報告書の平面図に縮尺がなく、規模は不明であるが、前方後円墳であることは間違いない。埋葬施設は、第1 -36図白色系の粘土を使用した粘土榔であるとされている。榔の近くからは、古墳時代わん中期後半と思われる土師器の杯や境が出土しており、五世紀後半に築造された古墳と考えられる(潮来町教育委員会『棒山古墳群発掘調査報告書』)。棒山七号墳(庚申塚)は直径二六メ!トルの円墳で、埋葬施設は緑泥雲母片岩に107