ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
大生古墳群の成立第3章や古墳の形状等から見て、六世紀後半のものと思われる。本古墳の規模は、西部古墳群の中では最大であり、出土遺物も多く、盟主的性格の古墳である。西部第一四号墳は、全長一五メートルの円墳で、埋葬施設は雲母片岩による箱式石棺である。石棺内からは、二体の人骨が出土しているだけである。本古墳は、西部第一号墳の南側に近接しており、築造時期も同じくらいと思われ、大場は西部第一号墳の陪塚の可能性を示唆している。西部第二号墳(鹿見塚)は、昭和二十八年一月、友野良一、西宮一男、2号墳全景(大生西古墳群)井上義安の三氏によって測量調査された。調査の結果、全長五八・一メートル、前方部幅三二メートル、後円部径三四メートル、同高六メlトルの前方後円墳で、西側くびれ部の中央よりやや南に造出部があることがわかった。本古墳は、西部第一号墳に規模は劣るものの形状が似ており、盟主的性格の古墳としている。東部古墳群の稲荷塚古墳は、全長六一メートル、前方部幅三二メlト第1 -40図ぺ後円部径三四メートル、同高四メートルの前方後円墳で、東部古墳群では最大級である。しかし、西部第一号墳にくらべ、くびれ部が細く、前方部が低く平らであるのが特徴である。東部古墳群の大殿塚は、中世に潮来地方を支配していた大生弾正一族を奉杷した小洞が墳丘上にあり、大場は中世の塚の可能性があるとしたが、町史編纂委員会の測量調査の結果、塚の周りに周溝と思われる落ち込みを確認し、全長二三メートル、高さ三・五メートルほどの二段構築の七世紀中頃の方墳であることがわかった。ーの本古墳群は、大生原台地から南に延びる細長い舌稲荷山古墳群状台地の先端部に立地しており、三基の前方後円壌と五基の円壌によって構成されている。円墳の最大のも1