ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代Eのは一号墳で、全長二二メートル、高さ二・四メートルである。前方後12円墳は、台地の南斜面際に並列しながら太平洋を望む場所に立地しており、本古墳群の中心墳である。五号墳は全長三四メートル、高三一メ1トル程で、前方部と後円部の高さはほぼ同じである。六号墳は全長二三メートル、高さ一メートル程で、前方部と後円部とのくびれは弱い。八号墳は全長二五メートル、高さ一メートル程で、前方部に比ぺ、後円部は非常に大きい。これらの古墳は、形状的には僅かな時間差があるものの地膨れ状の低5号墳全景(大生西古墳群)いもので、小円墳と小型前方後円墳から成り立っていることと埴輪が採集されていないこと等から、六世紀末から七世紀初頭の後期古墳と思われる。また、大生原台地の南端の枝状台地に選地していることから、大生古墳群に葬られた人びとと同族であったものとしても、身分差が感じさらに、前方後円墳の主軸方向(NlUlE)が鹿嶋市宮中野古墳群の方向を向いていることにも注目したい。られる。第1 -41図当地域を調査した大場は、大生古墳群の報告書の中で、多氏と古墳「文字のない墓に葬られた人の推定は無謀に近い」と言いながらも、付近に存在する地名や神社を手掛かりに、被葬者の民族名を推定している。古墳群の立地する旧大生原村大字大生は、『和名抄』の古郷行方郡大生郷に当たることと、大生神社の由来に大和の多邑に坐す多坐弥志理都比古神社との関係が記述されていること、また、本神社の御斎神事が鹿島神宮のそれと共通性があり、神宮との深い関係があることに注目した。鹿島神宮は、香取神宮と共に東夷征伐に関わる武運の神であり、神宮の所在する鹿島郡は那珂国造が管理する神郡であった。『常陸国風土記』たけかしまのみζと行方郡の条には、建借間命が「即此那賀国造初祖」と記述されている。