ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

かむやつまた、『古事記』中巻、当芸志美命の変の段には、神武天皇の皇子神八いみみのみことおふ井耳命の奇とあり、一七の子孫を挙げている。その中に意富臣の名が見ぉ,aおふおふおふられる。意富は、太、大、妖富、於保等と共に多氏を示す言葉であり、建借間命は多氏一族の者であったことが推定できるとしている。多氏は、朝鮮との関係が強く、しかも、大和政権との関連を持ち、肥国(熊本県)を中心に勢力を誇っていた氏族であった。それが、大和国市(奈良県磯城郡磯城村)付近に進出し、その地を中心に各地に進出して行った。それを示す史料として、『常陸国風土記』の中に、建借間命が崇神天〈ず皇の時、常陸地方の荒賊国栖を討伐するために派遣され、賊をおびき出すために、部下に「杵嶋唱曲」を七日七夜唱わせ、集まって来た賊を皆殺しにしたとある。「杵嶋唱曲」は、肥前国杵島地方の俗謡であり、}にも多氏との関係を知ることができるとしている。鹿島の地を平定した多氏一族は、鹿島神宮を奉載し、さらに常陸国を平定していったものと思われる。その中で、行方郡内にも多氏の一族が土着し、大生神社を中心とする大生原台地に集落が形成され、百数十基もの古墳を築造し、一族の奥津城としていったものと思われる。しかし、大勢力を持ち、朝鮮との関係が強かった多氏でありながら、古墳からは朝鮮との関係を示す遺物がでないどころか貧弱な副葬品しか出土してないことに対し、大場は「大生古墳群が築造された六世紀後半ごろには、大生古墳群の成立多氏の権力もなくなり、地方の一豪族程度の地位を確保することが精一杯であったことを出土遺物が物語っているのではないか」と推定している。このように、大生原台地を中心に多氏は長い間勢力を持ち、権勢を議固い、呼び名もいつしか、オオ氏からオオウ氏となり、中世にこの地を第3章治めた大生氏へと受けつながれて行ったと考えている。それに対し、『常陸国風土記』の写本(管政友本)に誤写があったとし、さお「杵嶋唱曲」の嶋は鳴であり、「杵を鳴らして曲を唱う」と読み、肥国と関係ないという説もある。しかし、「建借間命が海浜に船を連ね:::賊を皆殺しにした」という風土記の記載については従来どおりとし、那賀国造の初祖が海の祭りや舟軍に特別な才能があったことは間違いないとしている(『常澄村史』)。V}115