ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代第三節むらと杷りE潮来町の古墳時代の集落跡は、塙遺跡や大賀立野遺跡、むらの構成古高覚宗遺跡、訂の梶内遺跡で確認されている。」れらの遺跡は、古墳時代後期から平安時代に至る集落跡であるが、集落の一部分の調査であり、全容は不明である。発掘調査や鏡に描かれた絵、家形埴輪等の出土遺物からこの時代の集落を想定すると、一般農民の住まいである竪穴式住居、穀物を蓄える倉庫や有力者の住まい(平地式住居・高床式住居)と思われる掘立柱建物、納屋等によって構成されている。竪穴式住居跡は、地面を方形あるいは長方形に掘り込んで構築されており、住居内には屋根を支えた直径三十センチ前後の円形の住穴や壁の土留めと思われる壁溝、炊飯・暖房・照明といった機能を持つ炉や炊飯のためのカマド、食料を蓄えるための円形や方形をした貯蔵穴、住居の出入りに使用したと思われる梯子を支える穴等といった施設が見られるが、それらの形状や配置は、時代や地域によって差異が見られる。掘立住建物跡は、発掘調査では主軸線や距離をほぼ同じくする柱穴が二間×四聞や一間×二間といった並びで確認されるもので、どの様な建て方をしたのかは不明な点も多いが、家屋文鏡や家形埴輪を見る限りでは、第E14図の様な倉庫や高床式住居として使用されたものと思われる。掘立住建物跡の発見例は西日本に多く見られ、大和政権との関わりが考えられ、政治的意味合いの強いものと考えられている。また、近年、全国各地で一辺三0メートル以上の方形区画の溝に固まれた豪族居館跡と呼ばれる遺構が多見されている。}れらの発見は、地116方の有力者がさらに力を強め、一般民から隔絶していったことを物語っおくのやもりどこ〈しようもとやしきている。県内でも茨城町奥谷遺跡や那珂町森戸遺跡、石下町国生本屋敷遺跡で確認されており、大生古墳群をはじめ、多くの古墳が存在する当町においてもいずれ豪族居館跡が発見されるものと思われる。次に、町内で発掘調査された遺跡を中心に各時代の住居跡を見ていき-皿、OJ'h、LV古墳時代前期現在、前期の住居跡は発見されていないが、県内の本期ごうしゅうはらみたんだの遺跡を見てみると北相馬郡守谷町郷州原遺跡やひたちなか市三反田〈じふきあげ目立市久慈吹上遺跡等が挙げられる。町内からは、遺跡、それらの遺跡は中小河川や湖の周辺台地上に立地している。また、住居跡の規模は一辺四1五メlトルの方形をしているものが多く、炉は壁際に寄っているのが特徴である。古墳時代中期本期の住居跡は、大賀の塙遺跡が挙げられる。本遺跡は、北浦右岸に面した舌状台地上に立地しており、一一軒(第五、O一五号住居跡)の住居跡が確認されている。第五号住居跡と第一O号住居跡は重複しており、少なくとも本期は二時期に分けることができる。古い方の第五号住居跡は、一辺六・三メートル程の隅丸方形をしており、やや北西に寄った部分に炉が付設ぎれている。柱穴は、確認されていない。新しい第一O号住居跡は一辺七・八メートル程の方形をしており、北西壁寄りに炉が付設されている。柱穴は、四本で構成されている。また、第一五号住居跡は工房跡と思われる遺構であるので}こでは除外する。このように、本期の住居跡は、後期の住居跡に比ぺ確認例は少ない。