ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
古墳時代の集落跡は、低地に面した台地縁辺部を中心にくりし確認されている。}れらの立地は、低地での水田経営と集落後背地での畑作が考えられる。実際、群馬県下では発掘調査によって、水田跡や畑跡が確認されており、米や麦、粟等を中心とする食物が栽培されていたことがわかる。県内でも、鹿嶋市木滝台遺跡とひたちなか市武田遺跡から動植物遺体が検出されている。木滝台遺跡の大溝からは、ウチムラサキガイ、チョウセンハマグリ、コタマガィ、イタポガキ、オキシジミ、ヤマトシジミ、ホソウミニナ、アカニシ等の貝類やニホンジカ等の獣骨、魚骨が検出されている。武田遺跡のカマドや土器の中からは、稲、小麦、大麦、マクワウリ等の植物やウニ等の動物が検出されている。しかし)れらの全てを食していたことを実証することは難しいが、各地の発掘調査での自然科学分析によって、米や粟等の穀物を主食とし、麦や豆類、堅果類、魚類を副食とする食生が基本であったと考えられている。また、各遺跡から出土する遺物からも当時の生業(農耕、漁携、狩猟)の復元ができる。鉄鎌や鉄鍬等は農耕に、土錘は漁携に、鉄鉱は狩猟に使用されていたものと恩われる。特に、}の中でも農耕にかかわる遺物の出土量が多く、生一業の中心は農耕であったことを物語っている。大生古墳群の成立では、次に出土遺物からある程度の復元が可能な米や粟の調理法について考えることにする。米の出土は、弥生時代以降に見られる。その調理法にかかわる聾や甑(蒸器)から推定すると、弥生時代から古墳時代中期にかけては聾の出土量に比ぺ、底部に孔を聞けた鉢形甑の出土量は極端に少ない。つまり}れらの時代は炉に聾を掛け、米を煮て「ごは第3章ん」か「粥」にして食することが中心で、甑で蒸す「強飯」は現代同様、特別な時(ハレ)の場等の限られたときのみ、食されていたものと考えられている(椙山継「粥と強飯|祭杷遺跡の炊飯具|」『国学院雑誌第九一巻七号込=それが、古墳時代後期になりカマドの導入が先か、「強飯」の必要性が先かは別として、カマドが付設されるようになる。カマドは炉に比ぺ、熱効率を良くし、大形の聾や甑を据えることができ、「強飯」を容易に炊くことができるようになった。}のことにより、「強飯」という蒸して食べる行為が普及し、煮る行為は中世の内耳鍋や鉄鍋が出現するまで主流にはならない。}の背景には、古墳時代における大和政権での祭杷が地方へ浸透、定着したことの現れという説や古代社会において、東国の人々が防人や蝦夷征伐等の労働や精等の物資調達が義務付けられ、兵士の携行用食料や保存用食料、税として蒸し米を干して作る精の必要性が生じたため等の説(笹森紀巳子「かまど出現の背景」『古代七二』)が考えられている。有史以来、人々は自然物や自然現象に対し、尊敬の念やまつ畏怖の念を抱き様々な祭り事を行ってきた。その祭り事りも古墳時代になると、首長を中心に生活はもとより政治とも関係する全国的で斉一性のある祭把に変化する。その対象は様々で、岬や海浜における海(漁業)の祭杷、河川沿いに見られる川の祭杷、山を越えるに当たって行われる峠の祭杷、神奈型、浅間型の山麓に見られる祭杷(山岳信仰)、田の畦等で行われる農耕の祭杷、住居内に見られるカマドの祭杷、集落内における祭杷、神社で行われる祭杷等がある。そオ工らの祭杷を復元するものとして、加工しやすい滑石で作られた石製模造てづくね品(有孔円板、剣、万子、斧、鎌、鏡、臼玉、釧等)と土製模造品(手担土器、杓子、三輪玉、結錘車、鏡、鍬等)と言った祭杷遺物がある。有孔円板は鏡、剣形品は剣、臼玉は管玉の形代と考えられ、天皇家の三種神器との関係を示している。}のことは、大和政権の祭政一致の思想が119