ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第四章律令時代の社会第一節行方郡内の郷里国・郡・里の地方制度は、大化改新によって定められた常陸固と行方郡の成立といわれてきた。それは改新の詔第二条に「郡は四十里を以て大郡と為し、三十里以下回里以上を中郡と為し、三里を小郡と為せ」とあり、第三条には、五O戸を以て一里となすことゃ、郡司・里長の任用規定までが決められていたからである。しかし、大宝令発布以前の地方制度は国・評・里制であり、改新の詔の規定は大宝令の制に合わせて、『日本書紀』の編者が書き直したものと思われる。国・評・里制を国・郡・里制に書き直したのは、『日本書紀』だけではない。『常陸国風土記』でも国・評・里制であるべき地方制度が、国・律令時代の社会郡・里制になっているのである。『常陸国風土記』多珂郡の条には、忽にわ訟がらとよさき難波の長柄の豊前の大宮に天の下をお治になられた天皇(孝徳天皇)みずのとうしいわきのあたいみやぺこおりのみ宇っこぺのしこの時代、突丑の年に、多珂国造石城直美夜部と石城評造部志許あか赤たちが、惣領であった高向大夫に請い願って、統治する地域が遠く隔っており、往き来するさえ不便であるという理由で、分けて多第4主珂と石城の二郡を設置したのである。とみえる。この記事によると、多珂国は大化改新によって、多珂国造石城直美夜部と石城評造部志許赤が惣領高向大夫に申請し、突丑の年(六五三)に多珂・石城二郡の建郡をみたことになる。つまり石城郡(評)は、白矯四年(六五三)に多珂国から分置されたことがわかる。しかし、『古事記』神武天皇の段に「常道の仲国造」とともに、「道奥の石城国造」とみえる。石城国造の領域は、のちの石城評(郡)と考えるのが普通である。この『古事記』の記事が史実とすれば、多珂国造の領域を割いて石城評を置いたという『常陸国風土記』の記事と合わなくなる。もっとも『古事記』の記事が「常道」の仲国造、「道奥」の石城国造というように、「常道」と「道奥」の用字になっているのは、後述のように大化改新後の影響をBつけているのである。また「石城評造部志許赤」という人物にも問題がある。「石城」は地名、「評造」は官名、「部志許赤」の「部」は、中臣部、大伴部などと同じ「部」の意味である。「志許赤」は名ということになる。すなわち、「石城評造の部である志許赤」という意味である。しかし、石城評造の部民である志許赤が、多阿国造と並んで石城評の分置を申請するのはおかしいことである。『続日本紀』神護景雲三年三月十三日条に、常陸国おお磐城郡の人、外正六位上丈部山際に於保磐城臣の姓を賜わったことが記やまぎわされている。丈部山際は石城郡の郡司層の者であり、『続日本後紀』承おきみ和七年三月十二日条にみえる磐城郡の大領磐城臣雄公はその後喬であろぅ。石城評造が大宝令制定以降に石城郡の郡司の地位を継いだとすれば、123