ブックタイトル潮来町史
- ページ
- 136/1018
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている136ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている136ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
潮来町史
原始・古代石城評造の氏は「丈部」であったことになる。そうすると『常陸国風土記』の「石城評造部志許赤」に脱字があって、本当は「石城評造丈部志許赤」と記されていたのであろう。なお「志許赤」という名にも問題がEある。志許赤はシコアカとよまれている。「志」「許」は音仮名であり、「赤」は訓仮名である。すなわち音訓混用表記になっているのは異常である。「赤」はしばしば「嚢」と誤写されることがあるので、「士山許赤」あしわらしこは「士山許嚢」(シコヲ)の誤りである。『播磨国風土記』にも、「葦原志許乎お」という神の名がみえるので、「志許嚢」の名が自然である(志田誇一「古墳文化と多珂国造」『北茨城市史』上巻)。『常陸国風土記』信太郡の条には、孝徳天皇の白雑四年(六五一二)に小山上物部河内、大乙上物部会津らが惣領高向大夫に請い願って、筑波・茨城の郡七OO戸を分けて信太郡を割いた、とある。五O戸一里制に合わせると、一四里になり、『和名抄』の信太郡の郷数と一致している。したがって、}の七O O戸は一里五O戸を基準にしたものと思われる。『日本書紀』白維三年四月条に、「戸籍造る。凡そ、五十戸を里とす。里毎に長一人」とあるので、信太郡の建郡前年に五O戸一里制が施行されたようにも思われる。また『常陸国風土記』行方郡の条には、同じく白維三年(六五二)に茨おのこ城国造小乙下壬生連麿、那岡国造大建壬生直夫子らが、惣領高向大夫に請い願って茨城の地八里、那珂の地七里、合わせて七OO余戸を割いてぐんが別に一郡とし、郡街を置いたとある。香島郡の条にも、大化五年(六四九)に大乙上中臣口子、大乙下中臣部兎子らが惣領高向大夫に請い願って、下総国海上国造の部内の一里と、那賀国造の部内の五里を割いて神郡を置いた、と記されている。一里と五里のように、里単位に分割されているのをみると、里制の施行があったことになるが、さきの『日本書紀』の記事によれば、戸籍を造り、五O戸を一里としたのは白雑三年124(六五二)四月とあるので、大化五年のときはまだ五O戸一里制が定まっていなかったことになる。建郡申請者のおびている冠位にも問題がある。小山上物部河内、大乙上物部会津(信太郡)、小乙下壬生連麿、大建壬生直夫子(行方郡)、大乙上中臣口子、大乙下中臣部兎子(香島郡)とある小山上、大乙上、大乙下、小乙下の冠位は、大化五年制定の冠位にもみられるが、天智三年(六六四)制定の冠位にも同じものがある。とくに「那珂国造大建壬生直夫子」の大建は、天智三年制定の冠位に限ってみえるものなので、那珂国造とともに行方郡の建郡を申請している「茨城国造小乙下壬生連麿」の冠位も天智三年制定のものと思われる。『常陸国風土記』では、建郡のことがすべて孝徳朝に行なわれたように記されているが、これは大化二年(六四六)の郡や里を置け、という改新の詔にもとづいて潤色された疑いがあり、実際に建郡(評)が施行されたのは天智朝とみることもできる。これに対して、建郡申請者の冠位は最終的身分の冠位をもって記されている、とする憶測があるが疑わしい。というのは広大な領域を支配した那賀国造壬生直夫子が、「大建」という天智三年の冠位二六階中の第二五階という下位の位階で終わったとは恩われない。那賀国造の領域を割いてもらう香島郡の建郡申請者が那賀国造よりも六階上位の大乙上の冠位を有し、中臣部兎子は四階上位の大乙下をおびているのである。壬生直夫子が大建という下位の冠位なのは、彼がこの当時若年であったからであり、晩年までにはもっと位階が進んだものと恩われる。そう考えなければ、多珂国造石城直美夜部などは最後まで冠位がなかったことになろう。常陸国では天智九年(六七O)に造籍がはじまり、翌年完成している。