ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代E下流域に位置し、現在の鉾田町の南部にあたる。あうかおおう逢鹿郷『常陸国風土記』に田の里の南方に、相鹿、大生の里がある。おかぎき古老のいうことには、倭武天皇が相鹿の里の丘前の宮においでになったかしぎやとき、食事を用意するための炊屋舎を浦辺に造り備え、小舟を並べつなあんざいしよおおいいで橋とし、行在所に通うようにした。その大炊の義を汲んで、この地きさきおおたちば紅ひめのみことを大生の村と名づけた。また倭武天皇の后、大橘比売命が倭からおいあうかむらこの地で天皇とめぐり会ったので、安布賀の邑といっている、130でになりとある。正倉院の調庸関係銘文に、天平勝宝五年(七五三)十月「常陸国行方郡逢鹿郷戸主建部身麿調布壱端」と「常陸国行方郡逢鹿郷戸主壬生直宮万調布壱端」と墨書されている(松嶋順正編『正倉院宝物銘文集成』)。}I『新編常陸国誌』は、逢鹿郷を次のように記している。巴倭名紗云、逢賀、按ズルニ上古ハ相鹿ノ字ヲ用ヒタル由、風土記ニ第I -54図見ュ、ソレヲ逢鹿ニ更メシモノナリ、中世ハ相賀トモ大賀トモ書キタリ、即今ノ大賀村ナリ:::今相賀郷ト称セルハ、大賀、矢幡、字崎、白浜、根小屋、岡平、倉川、青沼ノ八村、三千石パカリノ地ナリコレ皆古ノ逢鹿郷ナルコト知ベシ、風土記倭名紗-一拠リテ地図ヲ按ズルニ、此郷東ハ流海-一涯リ、西ハ麻生郷ニ接シ、南ハ大生郷-一錯シ、北ハ道田郷-一隣レリ、中世大賀、青沼、倉川等ノ諸村、鹿島神領加納十二郷ノ内ニ入レリ、これに対して『大日本地名辞書』は、「今太田村、及び大和村の南偏なる岡、字崎、白浜等にあたり。大生郷の北、西は麻生、小高郷に至り、東は北浦の流海に対す」としている。し、現在の潮来町大賀および麻生町南東部の根小屋、蔵川、宇崎、矢幡、」の郷は北浦西岸の沖積地に位置石神、白浜のあたりに比定される。井上郷『常陸国風土記』にはみえない。『新編常陸国誌』は次のよう