ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

この郷は霞ヶ浦と北浦に挟まれた行方台地と周囲の沖積地に位置し、現八や在代台の郷麻生町,市比定される『常陸国風土記』にはみえないが、風土記にみえる香澄の里から、分離独立した郷とする考えもある。『新編常陸国誌』は、「八代」をヤトシロとよみ、次のように記している。倭名紗云、八代、按ズルニ、今其名ヲ失フ、思フニ今ノ島崎村ナリ:::八代ノ名義未考へズ、甲斐国ニ八代郡アリ、倭名妙-一夜豆之呂トヨメリ、郡中ニハ八代郷アリ、コレハ也都乃之呂トヨメリ:::地図ニヨリテ考フルニ、是郷東ハ大生郷-一接シ、西ハ香澄郷-一錯シ、南ハ坂来里ニ隣リ、北ハ麻生郷-一接シテ、島崎、赤須、築地、茂木、堀ノ内等ノ五村、二千五百余石ノ地、皆古ノ八代郷ナリ、中世改メテ島崎郷ト称ス、これに対して『大日本地名辞書』は、「八代」をヤシロとよみ「今八代村といふ者蓋是なり、香澄郷の東南に隣る」とする。)の郷は常陸利根川左岸に位置し、現在の牛堀町上戸、島須の一帯に比定される。かすみ香澄郷『常陸国風土記』に、郡衝の南二O里のところに香澄の里がbeおたらしひこある。古くからの言い伝えによると、大足日子天皇(景行天皇)が下総国包みの印波の鳥見の丘にお登りになり、しばらくここに立ちどまり、はるか律令時代の社会遠くをながめやられた後、東の方をふり向いてながめやり、なみ「海には青波がゆったりとただよい、陸おに付はき丹士の霞よ人にいわれたことには、がもうろうとたなびいている。国はまるでその波と霞のなかにあるように、わが目には見えることだ」と仰せられた。時の人は、この天皇のおことばによって、この地を霞の郷といっている、もりえのきっきっぱきしいやだけやますげ杜があり、榎、槻、椿、椎、竹、箭、麦門冬などが、という。東方の山にはあちこちにたくさ第4章ん生えている。}の里から西方の海のなかにある北の洲を新治の洲といぅ。そう称するわけは、洲の上に立って北の方をながめやると、新治国の小筑波の岳が見えるので、名づけた、とある。『新編常陸国誌』は、香澄郷を次のように記している。倭名紗云、香澄、按ズルニ、今ノ富田村ナリ、是地-一霞ト云ヘル小地名アリ、文古城アリテコレヲ霞城ト称シ、文稲荷嗣アリテコレヲ震稲荷ト云フ、古ノ香澄郷タルコト知ベキナリ:::海中ノ洲ハ、今モ永山村ニ属ス、其他ニモ下総-一属スル十六島ノ内ノ島々モ、至テ近キアリ、コノ辺古代ヨリ洲ノアリケンコト知ルベシ、実ニヨク筑波ヲ望ムペキ所ナリ:::風土記倭名紗ニヨリテ、地図ヲ按ズルニ、コノ郷東北並一一麻生郷-一接シ、西ハ流海ニ涯リ、南ハ板来里-一錯シテ、清水、富田、永山、牛堀、上戸等ノ五村、三千余石ノ地、皆古ノ香澄郷ナリ、コノ地辺、中世木田見郷ト称シテ、香澄ノ名ヲ失フ、これに対して『大日本地名辞書』は、「今香澄村、及び麻生町の富田の地にあたる」とする。}の郷は、現在の麻生町南部の富田から牛堀町の北西部一帯に比定される。しみず『常陸国風土記』に、倭武天皇が槻野の清泉からさらに乗りあらはらものを巡らして、現原の丘にお行きになった。そこでお食事を用意して荒原郷さしあげた。ときに天皇は四方をながめわたした後、お供の人びとをふり返って、「乗物を止めて付近をぶらぶらと歩き、眼をあげて眺めやってみると、山々のひだは出たり、入ったりしながら重なり続き、海辺のひだは長くうねうねと続いている。山の峰の頂には雲が浮かび、谷のあたりには震がかかっている。風光はすばらしく、地の形には心ひかれる。なめくわしまことにこの地の名を行細の国と称するべきである」と仰せになった。i土それで現原と名づけている。倭武天皇おおやこの聞からお降りになって、大益の河にお出ましになり、小舟に乗133その聞は高く視界が聞けている。