ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代さおかじって川をお上りになったとき、舟の樟梶が折れてしまった。かじ江しの河の名を無梶河と称する、とある。それで、『新編常陸国誌』は、荒原郷について次のように記している。E倭名紗云、荒原、按ズルニ、風土記現原ニ作ぺ荒原ニ更ムルモノハ、神亀三年ト見エタリ、即今ノ芹沢村蕨ノ地ナリ、芹沢氏ノ伝説云、芹沢村旧名荒原郷ト云フ、芹沢ニ更ムルハ中古ノ事ナリト云フ、E芹沢、青柳、倉数三村ノ境ヲ、荒原野ト云フ:::コノ郷風土記ヲ撰セラル、比ハ、イマダ里名ニハナラデ、丘ノ名ニアリシト見エタリ、和銅以後ニ、立テ一郷トナサル、時ニ、丘ノ名ヲ取テ、命ゼシナルベシ、サテ本字ヲ荒原-一替タルハ、コノ辺ナぺテ広野多キナレパナルベシ、風土記倭名紗ニヨリ、地図ヲ按ズルニ、此郷東ハ巴川一一涯リテ、鹿島郡徳宿郷-一対シ、西ハ曾根駅-一接シ、南ハ芸津、当麻二郷ニ錯シ、北ハ茨城郡ニ隣リテ、青柳、芹沢、若海、蕨、石神等ノ五村、二千六百石パカリノ地、皆古ノ荒原郷ナリ、これに対し、『大日本地名辞書』は、「今現原村是なり、郡の北西隅にして、玉造町の北なる梶無川の左右にわたり、立花郷の南、当麻郷の西とす」としている。この郷は梶無川の左岸、現在の玉造町芹沢、蕨、若海などの地に比定される。道田郷『常陸国風土記』に、芸都の里の南に田の里がある。息長足この地に名を古都比古という人が住んでいた。三度目に売わのた皇つ后ての韓2とのき国に派遣さオlfこ人でその功労を重視してこの地の田はずむだから田の里と名づけたのである。また波須武の野がある。ゅはず倭武天皇がこの野におとどまりになって、弓明を整え用意なさった。を賜わった。れによってこの地の名としたのである。この野の北の海辺に、香島のいちいははそにれ神の子神の社がある。土はやせていて、様、杵、検、竹がてこか所にそ生えている。とみえる田の134」の田の里の南に、相鹿・大生の里がある、里が道田郷と考えられる。宮本元球も『常陸国郡郷考』で「按鹿島郡浜里と同じく、其初は田里なりしが、後地名二字の制より、故事に因て道固となりしなり」としている。『新編常陸国誌』は、道田郷について次のように記している。倭名紗云、道田、按ズルニ、新宮小牧ノ辺ナリ、風土記云:::従レ是以南、相鹿、大生里云々: ::コ、ニ以南相鹿、大生里アルニヨレパ、新宮、小牧ヨリ以西ノ地、皆古ノ道田郷タルコト明ナリ:サテ道田ノ名義ハ風土記ニ見エシ知ク、道路往復ノ功アリシニ依テ賜ハリシ由ナルコトナリ、地図ニヨリテ推考スルニ、是郷東ハ流海一一涯リ、西北並-一小高郷ニ錯シ、南ハ逢鹿郷一一接シ、新宮、小牧、龍田、天掛、杉本、板倉、四鹿等ノ七村、二千余石ノ地、皆古ノ道田郷ナリ、これに対し、『大日本地名辞書』は、「今大和村の北偏の諸部落にあたる。逢鹿郷の北、東は北浦に臨み、西は小高、行方の西郷に堺す」としこの郷は現在の麻生町北東部から北浦村東部あたりに比定されている。る行方郷『常陸国風土記』に、倭武天皇が天下を巡幸され、この地をお通りなり、槻野の清泉で手を洗ったとき、玉を井の中に落とした。その井は今も行方の里の中にあって、玉清の井と称している、とある。正倉院の調庸関係銘文に、「常陸国行方郡行方郷戸主雀部根麻呂戸口雀部門川U調布壱端」と墨書されている。『新編常陸国誌』は、行方郷につV」いて次のように記している。倭名妙云、行方、今ノ行方村ナリ、弘安太田文-一ハ、大行方郷トアリ: : :サテ太田文ニ、大行方郷トカケルハ、モト郡家アリシ処一一テ、