ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代オも板主る来〈。郷『常陸国風土記』に、香澄の里から南十里のところに板来のH村がある。その近くで海辺にのぞんだ地に駅家が置かれている。うまやえのきあすかのきよみはら板来の駅という。その西に榎の林がある。ここは飛鳥浄見原の天皇(天おみのおおきみ武天皇)のとき、麻続王が遣わされて居させたところである。その海かみるおうにしうむぎらは、塩を焼く藻、海松、自民、辛螺、蛤がたくさん産する。また建借ま〈ずいたいたく五つ間命が国栖を「痛く殺す」といった地を、今、伊多久の郷といい、「臨に斬る」といった地を、今、布都奈の村といい、「安く殺る」といったやすきりよさえさき地を、今、安伐の里といい、「吉く殺く」といった地を、今、吉前の巴}れをといった。板来の南の海中に洲がある。周囲は三、四里あまりである。つのおう春になると、香島・行方両郡の男女たちが残らずやってきて、津白貝をはじめさまざまな貝類をひろう、とある。板来の駅家は、『日本後紀』弘仁六年(八一五)十二月二十二日の条に「常陸国板来駅を廃す」とみえる。『新編常陸国誌』は、板来郷について次のように記している。置駅家、倭名紗云、板来、今ノ潮来村ナリ、中世板久-一作ぺ元禄中今ノ字-一更ム:: :サテコノ板来村ハ旧ハ香澄里ノ内ノ一村ナリケンヲ、大化新制ヲ行ナハレテ後-一、コ、ニ駅家ヲ置カレシヨリ、別二村トナリ、板来駅ト云ハレシ也、其後弘仁一一至リテ、コノ駅ヲ廃セラル:::此時ヨリヨノ里ハ、又香澄郷-一属セシト見ユ:::地図一ヨリテ推考スルニ、コノ里西ハ香澄郷-一接シ、東ハ大生郷ニ隣リ、南ハ悉ク流海-一浜シ、北ハ八代郷-一接シテ、板来、辻ノ二村、千六百余石ノ地、皆古ノ板来里ナリ、『大日本地名辞書』も、板来郷「今の潮来町及び都知村にあたる」とする。この郷は現在の潮来町潮来・辻・古高あたりに比定される。あまへ余戸郷『新編常陸国誌』は余戸を「阿麻問」とよみ、余戸郷について次のように記している。136倭名紗云、余戸、按ズルニ、今ノ小幡村ナリ: :サテ余戸ハ今ノ小幡ナリト云ヘルハ、畑田文書弘長二年ノ下文ニ、行方郡小幡郷内雨見トアリ、雨見ハ即余戸ノ転誰ナリ、風土記倭名紗ニヨリテ、地図ヲ按ズルコノ里東ハ高家郷-一隣リ、西ハ井上郷ノ堺ノ原ニ限リ、南ハ小高郷ニ接シ、北ハ芸津郷-一錯シテ、小幡、行戸二村、四百五十石パカリノ地、古ノ余戸里ナリこれに対して、『大日本地名辞書』は、「今詳ならず、恐らくは延方村にあたり、坂来郷の東とす。郡郷考に、小幡村の雨見に擬せられしは、地形合はず: ::海夫即アマベにて、此海夫は、他の田土貢租の民に比すれば、異なる生計を為し、且神宮奉仕の部民なりければ、特に余戸てふ文字を充てられしゃも知れず、畢寛するに、延方、江崎、水原などの地を指せりと悟るぺし」とする。しかし、「余戸」と「海夫」を結びつけて、延方、江崎、水原に比定するのは疑わしい。}の郷は現在の北浦村小幡・行戸のあたりに比定される。