ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第二節郡司と農民『養老令』の定めによれば、郡は二O里以下、一六里行方郡の郡司以上が大郡、一二里以上を上郡、八里以上を中郡、里以上を下郡としていた。一七里を有する行方郡は、ぐうけぐんが大郡に属していたのである。郡の役所は郡家とか郡街とよばれていた。この郡街に勤務する役人が郡司である。郡司は大領・少領・主政・主帳の四等官からなり、大領・少領は郡領ともよばれ、郡領のことを郡司と記している史料も多い。郡の役所の職員数は、大郡は大領一、少傾一、主政三、主帳三の八名ようていで、ほかに雑務を処理する稽丁が九四名いたから合計一O二名となる。その職務をみると、郡領は郡内を治め、行財政全般と司法の一部を担当し、主政は郡内の取締り、公文書の審査、事務の監督、主帳は文案の作成などの政務を分担していた。}れらの政務は、国司の監督下に遂行され、税を徴収することなどの民家に直結した実務の多くは、郡司が処理F』bhv- -つPZUBu・4司サ''サ'律令時代の社会ごんこうした実務は正規の役人である郡司だけでは遂行できないので、権にんさにん任郡司・擬任郡司などとよばれた正規の任命手続を経てない役人ゃ、定員外の下級職員、あるいは多くの稽丁を抱えて機能を維持していたのであんじゅある。徳丁には書記を務める「郡書生」や「案主」、雑務の使い走り役まっとりのよほろすみやきのよほろである「駆使」、薪を集めたり炭を焼いたりする「採松丁」「炭焼丁」、第4章調や庸の徴税に従事する「調長」「庸長」など、多種の業務に携わった者がいたのである。行方郡の郡司については、若干の史料が残っている。正倉院の調庸関係銘文に、次のようなものがある(松島順正編『正倉院宝物銘文集成』)。常陸国行方郡逢鹿郷戸主建部身麿調布壱端専当国司史生正八位上高志史広道郡司大領外正八位下壬生直足人天平勝宝五年十月四常陸国行方郡逢鹿郷戸主壬生直宮万調布壱端専当国司史生正八位上高志広道郡司大領外正八位下壬生直足人天平勝宝五年十月由里常聖書陸属医胃ni高家郷戸主大伴部荒嶋白曝調布'E:端常陸国行方郡行方郷戸主雀部根麻呂戸口雀部門川U調布壱端郡司主帳外大初位上他国舎人部吉一両麿〔常陸国行方郡〕ハ川U領正八位下壬生直足人天平勝宝五年十月この銘文によれば、天平勝宝五年(七五三)ころの行方郡の郡司には大領壬生直足人と氏名不詳の擬少領、主帳他国舎人部高麿がいたことが知られる。壬生直足人は外正八位下、他国舎人部高麿は外大初位上の官位を有していたのである。律令制では、役人の任命にあたって官位相当といわれる原則をとっていて、その者がもっている位階にしたがって官職しようそいにあてることになっていた。位階は八世紀以後では、正一位から少初位下までの一二O段階があった。しかし、郡司には官位相当の規定がなく、大領に外従八位上、少領に外従八位下の位を与えることが定められてい137