ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代Eるだけである。「外」という字がついているのは、本来の位階体系から外れていることを示し、」れがついた位は主として地方豪族に与えられたのである。『常陸国風土記』には、孝徳天皇の突丑の年(六五三)に茨城国造小乙下壬生連麿と、那珂国造大建壬生直夫子らが惣領高向大夫と中臣幡織田138大夫に請い願って、茨城の地八里と那珂の地七里、合計七OO余戸を割いて、別に一郡とし、郡街を置いたとみえる。新設の行方郡の大領には、壬生連麿か壬生直夫子が任ぜられたと思われる。風土記には、孝徳天皇のとき壬生連麿が郡街の西の谷を占有して、池の堤を築造させた、とあるので壬生連騒が行方郡の最初の大領になったようである。しかし、天平勝宝五年(七五三)ころの大領は、壬生連麿の後育ではなく、壬生直夫正倉院調庸関係銘文子の後育である。壬生直足人とみえるからである。なぜ行方郡の大領が、茨城国造の壬生連系統から那賀国造の壬生直系統に交替したのか明らかでない。主帳他国舎人部高麿は、敏達天皇の名代として行方の地に置かれた他第1 -58図田部の子孫である。一里五O戸に編成された農民は、「編戸の民」とも「調租・庸・調庸の民」ともよばれ、租・庸・調などの税を負担した。『大宝令』の規定によると、六歳以上の男子は田二段、女子はその三分の二(一段一二O歩)を支給され、田租として田一段(一0・五アール)につき稲二東二把(慶雲三年以降は一束五把)を納めることになっていた。しかし、租だけの収入では国家財政を賄いきれなかったので、毎年三月と五月に稲を貸し付けて、収穫後に五割の利稲とともにすいこ徴収する出挙の制度も行われた。庸と調は人を単位に取り立てた税である。庸は一年に一0日間、京で土木事業に従事する代わりに二丈六尺の麻布を納めるもので、正丁(二一1六O歳の男子)と次丁(身障者と六一1六五歳の男子)に課せられた。めしぎぬただし、次丁は二分の一を負担した。調は絹、施、糸、綿、布など、その土地の物産を納めるものである。正丁には、ほかに副物という付加税