ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

が課せられた。ばれた。これらの庸・調は、農民の負担する運脚によって京へ運さらに雑稽と雇役が課せられた。雑径は年に六O日、国司や郡司の指揮下で池や堤・倉庫の修理などの土木工事に従うものである。雇一役は国家で行う土木事業に役夫として、半ば強制的に雇用されるものでしちょうある。仕丁と兵役も農民に課せられた負担である。仕丁は五O戸ごとに二人ずつ徴集され、三年交代で中央官庁の雑役や建設作業に従事するものである。兵役は正丁三人か四人に一人の割合で徴発され、諸国の軍団に配属されて交代で訓練を受けた。そのうち一年間、宮廷の警備にあたえじさき一もりるのが衛士であり、三年間、九州の防衛にあたったのが防人である。常陸国の農民は、規定どおりの調・庸を納め課役に服していた。「賦ゃくりょう役令」の規定によると、調布には園、郡、里、戸主の氏名、年月日を書き入れ、国印を押して納めることになっていた。現在、正倉院に保存されている調布は、いずれも規定どおりになヮている。さきに紹介した、行方郡逢鹿郷戸主建部身麿、同郡同郷の戸主壬生直宮万、行方郡高家郷戸主大伴部荒嶋、行方郡行方郷戸主雀部根麻目の戸口雀部門lUらが天平勝宝五年(七五三)十月に、調布壱端を納めている。「賦役令」によれば調・庸の納入期限は、近国が十月三十日、中国が十一月三十日、遠国が十二月三十日であった。常陸国は遠固なので十二月三十日以前に納入しなければならなかった。常陸国から京までの調・律令時代の社会庸の運脚の行程は、上り三O目、下り一五日であった。常陸国の農民は、第4章第1 -59図藤原宮出土木簡にみえる知奴(黒鯛)十月までに調・庸を国街へ運び、十月末か十一月に国街を出発して京へ向かったのである。建部身麿、壬生直宮万、大伴部荒嶋らは十月に調布を国衝に運び入れ、国街では調長や庸長が立ち合い、書記を務める郡書生や案主が、園、郡、里、戸主の氏名、年月日、国司、郡司の名を書き入れて国印を押したのである。調の雑物には、海産物が多く貢納された。天平十八年(七四六)ころ、わかめ那賀郡から貢納した「若海藻」に付けた木の荷札が平城宮跡の発掘調査で出土し、「常陸国那賀郡酒烈埼所生若海藻」と墨書されていた。海産物は行方郡からも貢納されていたと思われる。『常陸国風土記』には、みる行方の海に海松や塩を焼く藻が生えていて、さまざまな魚が記載できなおうにしいほど多い、とか、板来の海からは塩を焼く藻、海松、白貝、辛螺、蛤うむぎがたくさん産する。また板来の南の海に洲があり、春になると、香つのおう島・行方両郡の男女たちが残らずやってきて、津自民をはじめさまざまの貝類を拾う、とみえる。『藤原宮跡出土木簡概報』に、「門U評阿尼里知奴大賢」と墨書された木簡が出土している。評名の部分が汚損し、判読が不能なので、あみれの国のものか明らかでないが、常陸国信太郡には阿禰郷があるので、ちぬくろだいおおあるいは常陸国のものとも思われる。「知奴」は黒鯛のことである。大にえ費は費ともよばれ、天皇または朝廷へ貢献する食物である。大化改新以いず前から、海・水産物を主とする食料を、費の名称によって天皇または朝廷に貢進する制度があった。課税の対象は、天皇・朝廷の支配に服した共同体と考えられている。この制度は大化改新以後も継続された。の木簡は「評」字が記されているので、大宝令の施行以前に朝廷に貢献した費の付札に用いたことが知られる。139