ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代おそらく、行方郡からも大費が貢献された可能性が大伴部と海の幸ある。とりわけ正倉院の調庸関係銘文にみえる、行方郡高家郷の戸主大伴部荒嶋の存在が重要である。E西茨城郡友部町の「友部」の地名は、文禄五年(一五九六)の「御蔵江納帳」(秋田県立秋田図書館蔵)に「ともへ」とあるので、古くからの地名である。多賀郡十王町にも友部の地名があり、『和名抄』にみえる多珂郡伴部郷と結びついている。伴部は弘仁十四年(八二三)四月以前は、大伴部とよばれた(『類衆国史』巻二八)。かしわでのおみ大伴部は天皇の食膳に供奉する膳臣に管掌された部民で、海浜地域に置かれた大伴部は天皇や朝廷の食膳に供する海の幸と関係が深い(士山「常陸国風土記と海の幸・山の幸説話」『郷土ひたち』第三四号)。『藤原おおとものまめ宮跡出土木簡概報』に「仲郡吉田里人」「大部真目」が費を貢献したと回誇きの付札がみえる。「大部」は「大伴」と同じである。弘仁十四年(八二一一一)ころに作成された那賀郡の「常陸国戸籍」にも、「伴部小万自売」「伴部家万自売」などの名が記されており、潤沼周辺に「大伴部」が置かれていたことが知られる。したがって、友部町の地名は潤沼の入江から産する水産物を貢献した大伴部と関係があり、大化改新以前にさかのぼる歴史を有しているのである。大伴部は鹿島郡の地にも置かれていた。嘉祥三年(八五O)八月五日の太政官符に鹿島神宮寺の僧に「今、部内の民大部須弥麿」ら五人を補すことがみえる(『類衆三代格』巻二)。「平城宮発掘調査出土木簡」に、「常陸国鹿嶋郡播麻郷大費(以下欠)」とあるので、鹿島郡播麻郷に大伴部が置かれていたのである。大部須弥麿はその子孫であろう。行方郡高家郷の戸主大伴部荒嶋の存在は、大化改新以前に北浦に大伴部が置かれ、費を天皇や朝廷の食膳に貢献していたことが知られるのである。また、大伴部は漁携や水運にも従事したものと思われる。140