ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第三節行方郡の駅家律令制時代の交通制度には、駅馬・伝馬の制があった。常陸路の駅家律令の規定によると、諸道には原則として三O里(約えきでん一万六O三六メートル)ごとに駅を置き、駅には駅田えきこと駅戸が配された。駅戸は駅田の耕作と駅馬の飼養にあたった。駅戸内の正丁会二i六O歳の男子)から駅子が徴発されて、駅使の逓送・接待に従事することになっていた。また、駅一戸のなかから富力と才幹のある者一人を選んで駅長に任じ、駅の運営にあたらせた。駅の維持・運営にえきとうすいこは駅田(大路四町、中路三町、小路二町)の収穫(駅稲)を出挙し、その利稲が充てられた。駅は全国に置かれ、諸国の国府は完全に駅路によって京と直結していたのである。常陸国では、奈良時代から盛んになる蝦夷征討とも関連し、駅制は非せた常に重要なものであった。近江国の勢多駅家(大津市)を起点として、常陸国府(石岡市)に至る東海道(中路)の駅制が整備された時期は明らかで律令時代の社会ないが、大宝律令の施行と関係が深い。『常陸国風土記』にみえる常陸えのうらのつ国の駅家は、榎浦津駅家(信太郡)、曾尼駅家(行方郡)、板来駅家(行方めしま郡)、平津駅家(那賀郡)、河内駅家(那賀郡)、助川駅家(久慈郡)、藻島駅家(多珂郡)があり、」のほかに「風土記逸文」に大神駅家(新治郡)がみえる。これらの駅家は『常陸国風土記』信太郡の条に、「榎浦津あり、す伝わはじめ便ち、駅家を置けり、東海の大道にして、常陸路の頭なり」とあるので、第4章東海道の一環として設置されたことが知られる。しかし、そうならば近江国の勢多駅家から常陸国府まででよかったはずである。東海道は常陸国が最終点であったからである。そこで国府以北の河内駅家、助川駅家、藻島駅家の設置が問題となる。『続日本紀』養老三年閏七月二十一日条に、「石城国に始めて駅家十処を置く」とみえるので、国府以北の駅家は石城国の駅家(東山道)と結ぼれていたことになる。『日本後紀』弘仁二年四月二十二日条に、「陸奥あこ国の海道十駅を廃す」とあり、翌年十月二十八日条に「常陸国の安侯、河内、石橋、助川、藻島、棚島の六駅を廃す」とみえるので、国府以北の駅家は海道(太平洋岸)一O駅に直結していたのである。蝦夷征討の事業が和銅期から養老期(七O八1七二三)にかけて活発化するので、それに合わせて海道の駅家が設置されたのである。曾尼駅家と板来駅家は、常陸国府から鹿島神宮に至る参拝道である。大神駅家は現在の笠間市大郷戸あたりに置かれたもので、常陸国府から下野国府(栃木市)に通ずる駅家である。『日本後紀』弘仁二年四月二十二日条には、陸奥国の海道一O駅を廃して、常陸国の山道に通ずる長有・高野二駅を置いて機急を告げることとみえる。また弘仁三年十月二十八日条には、常陸国のおさか安侯、河内、石橋、助川、藻島、棚島の六駅を廃して、小田、雄薩、田に備えさせた、後の三駅を設けた、とあり、弘仁六年十二月二十二日条には、常陸国板来駅を廃した、と記されている。}れは蝦夷征討事業の成果にもとづいて海道の駅が廃止され、山道に切り換えがなされたことを物語る。常陸、陸奥両国の連絡は、久慈川沿いの長有、高野を経て白河関を通ることに改められたのである。『延喜式』兵部省にも、常陸園駅馬として「榛谷五疋、安侯二疋、曾禰五疋、河内、田後、山田、雄薩各二疋」とみえる。平津駅家(水戸市平戸)と結びついていたのは安侯駅家である。安侯は現在の岩間町安居である。最近の発掘調査によれば、安侯駅家から奥谷141