ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代E(茨城町)まで道路がつくられていたことが知られる(『常澄村史』通史編)。ったのである。延暦二十四年十一月十三日には、陸142奥国郡内の海道諸郡の伝馬が不要の理由で停止されているので(『日本後紀』)、海道の駅家の廃止も時間の問題であった。平津駅家は「平津」という物資積み出し港と連動して、特別に設置された駅家だったので廃止も早かったのであろう。石橋駅家の位置については諸説がある。東海村の白方・亀下とするものや、那珂町本米崎にあてる説がある(『東海村史』通史編)。石橋駅家の「石橋」の地名は各地にあり、由来は石の橋があったとするも第1 -60図のが多い。石橋駅家は、久慈川に近い石橋の架けられた小川のほとりに置かれた可能性がある。いずれにしても、久慈川は舟で渡らなければならなかったから、舟をつなぐ場所としても久慈川に注ぐ小川は格好の地であった。豊岡・亀下あたりは、久慈川の旧河道の痕跡がみられるので石橋駅家の位置としては適していたと思われる。最近の研究によれば、昭和二十一年(一九四六)アメリカ軍撮影の航空写真によって、日立市南部の御奈良時代の潤沼は大きな入江をなす内海で、奥谷はその水辺に位置してトルの区間に、館山麓の追分付近(大聾神社のあたり)から東多賀町に至る約四キロメ!かなり明瞭な直線の道路状痕跡が認められる。東多賀町いたのである。その奥谷から水運で平津駅家に至るコ!スが推測される。以北は当時すでに日立製作所の工場地域となっていたのでまったく痕跡平津は蝦夷征討に際し、軍需物資の積み出し港として聞かれ、重要な役が認められない。割を果たしていた。そのため平津駅家も特別に設置されたのであろう。駅路にあたる、的計画道の復原的研究』)。御館山麓の追分付近は、『常陸国風土記』にみというのである(木下良『日本古代律令期に新設された直線しかし、海道の蝦夷征討の終結とともに、陸奥への物資輸送も不要とな}の道路痕跡は走行からみて、石橋、助川両駅家間の