ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
える高市の里にあたる。そうすると、高市の里から助川駅家に至る直線道路が聞かれていたことになる。駅路を聞く土木工事が、どのようにして施工されたか明らかではないが、『万葉集』巻一二に次のような歌がある。新墾の今作る路さやかにも聞きにけるかも妹が上のことを新しく土地を切り開いて、今つくっている路がくっきり見えるように、うわさはっきりと妹の噂を聞いて心をときめかしたことである、という意である。「今作る路」の「路」は駅路の本道を指している。新しく土地を切り聞いて、今つくっている路がくっきり見える、というのであるから、広くて真っすぐな駅路がどこまでも続いていたのであろう。天平勝宝四年(七五二)の正倉院の調庸関係銘文に、「常陸国多珂郡棚藻嶋子戸主矢作部小僧輸調曝壱端」とみえる(松嶋順正編『正倉院宝物銘文集成』)。従来、}の墨書銘は、藻島駅家のものとされてきた。しかし、墨書銘には「棚藻嶋子」とある。「棚嶋」と「藻嶋」を混同したことも考えられる。「子」は棚島駅か藻島駅の「駅子」ともみられるが、「郷」とみる説もある(『正倉院宝物銘文集成』)。「棚」の字が最初に記されているのをみると「棚嶋」の誤りかも知れない。棚島駅家は、現在の北茨城市磯原町付近と考えられている(『北茨城市史』上巻)。文献にみえる常陸国の駅家には、榎浦津駅、曾尼律令時代の社会駅家の名と郷里名駅、板来駅、平津駅、河内駅、助川駅、藻島駅、大神駅(以上『常陸国風土記』)、安侯駅、石橋駅、棚島駅、小(山)田駅、雄薩駅、田後駅(以上『日本後紀』)、榛谷駅、安侯駅、〔園田禰駅、河内駅、田後駅、山田駅、雄薩駅(以上『延喜式』)がある。第4章八四日尼駅は『常陸国風土記』行方郡の条にみえる曾尼の村、『和名抄』にみえる行方郡曾禰郷に置かれた駅家である。『延喜式』にみえる曾禰駅は、曾尼駅とは別な駅である。板来駅は『常陸国風土記』行方郡の条にみえる板来の村、『和名抄』にみえる行方郡板来郷に置かれた駅家である。河内駅は『常陸国風土記』那賀郡の条にみえる粟河の近く、『和名抄』にみえる那賀郡河内郷に置かれた駅家である。助川駅は『常陸国風土記』久慈郡の条にみえる助川、『和名抄』にみえる久慈郡助川郷に置かれた駅家である。藻島駅は『常陸国風土記』多珂郡藻島、『和名抄』にみえる多珂郡藻島郷に置かれた駅家である。大神駅は『常陸国風土記』逸文にみえる新治郡大神、『和名抄』にみえる新治郡巨神郷に置かれた駅家である。安侯駅は『和名抄』にみえる茨城郡安侯郷に置かれた駅家である。小田駅は『延喜式』には「山田」とみえる。『常陸国風土記』久慈郡山田の里、『和名抄』にみえる久慈郡山田郷に置かれた駅家である。以上の駅家は、駅家名と郷里名が一致するのである。これに対して、榎浦津駅、平津駅、石橋駅、棚島駅、雄薩駅、田後駅、榛谷駅、曾禰駅は、駅家名と駅家が置かれた地の郷里名が一致しないのである。榎浦津駅は現在の江戸崎町羽賀か下君山に置かれていたようである。『和名抄』には榎浦という郷名はない。平津駅家は現在の水戸市平戸に置かれていた。『和名抄』にみえる那賀郡志万郷にあたる。棚島駅は現在の北茨城市磯原町付近に置かれていたようである。}の地は『和名抄』にみえる多珂郡新居郷にあたる。ところで、天平勝宝四年(七五二)の正倉院の調庸関係銘文に、「常陸国多珂郡棚藻嶋子戸主矢作部小僧輸曝壱端専当相嗣取材一献…駐諮問賊嶋」とみえる(松嶋順正編『正倉院宝物銘文集成』)。従来、この銘文は藻島駅家のものとされてきた。しかし、「棚藻嶋子」とあるので、「棚嶋」と「藻嶋」を誤って混同したことも考えられる。「子」は棚島駅か藻島駅の「駅子」ともみられるが「郷」とみる説もある(松嶋順正前掲書)。「棚」の字が最初に記されてい143