ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代るのをみると「棚嶋」の誤りかも知れない。そうすると、新居郷の旧名は棚島と考えることもできる(『北茨城市史』上巻)。雄薩駅の位置については、現在の久慈郡金砂郷町大里とする説が多いE(『新編常陸国誌』、豊崎卓『常陸国府・郡家の研究』)。しかし、大子町頃藤(吉田東伍『大日本地名辞書』)や久慈郡小里村(里美村)にあてる考えもある(『茨城県史』原始古代編)。田後駅の位置について『新編常陸国誌』は、現在の目立市田尻町とするがこれは論外である。『大日本地名辞書』は、現在の瓜連町静の付近とする。}れに対して、水戸市下国井町田谷にあてる説があるが(豊崎卓前掲室百)、賛成する者がいない。最近注目されているのが金砂郷町薬谷の長者屋敷に求める説である(藤岡謙二郎編『古代日本の交通路』I、『茨城県史』原始古代編)。そうすると、雄薩駅の位置は金砂郷町大里ではなく、久慈郡里美村ということになる。しかし、いずれも確証はない。金砂郷町薬谷は『和名抄』にみえる久慈郡久米郷にあたり、里美村は多岡郡賀美郷にあたる。榛谷駅については、榎浦津駅と同一にみる説が多い(『新編常陸国誌』『常陸国郡郷考』、栗田寛『標註古風土記』)。}れに対して、現在の龍ヶ崎市若柴町や半田町に求める説もある(『大日本地名辞書』『茨城県史』原始古代編)。曾禰駅は行方郡曾尼駅とはまったく別の駅で、現在の土浦市小松や高津あたりに求められている(『大日本地名辞書』『茨城県史』原始古代編〉。いずれにしても、『和名抄』には同名の郷里はない。同じ時期に同じ行路に置かれた駅家名が、どうして郷里名と一致するものと、そうでないものがあるのだろうか。東海村に置かれた石橋駅家も、なぜ石上駅家とよばれなかったのであろうか。石橋駅家に通じた河内駅家と助川駅家が郷里名をつけられているのに、その中間の石橋駅家が郷里名でよばれない理由は明らかでない。あるいは「石橋」は「石,、tmu,、内vbATつ上」の誤りということも考えられるが傍証はない。「厩牧令」には、144凡そ諸道に駅を置くぺけば、三十里ごとに一駅を置け。若し地勢阻険および水草なからん処は、便に随って安置せよ。里数を限らざれ。その乗具および蓑笠等は、各々置ける所の馬の数に准じて備へせしめよとあるので、駅の置かれた場所は地勢がよく水草が豊かな地であったことになる。また駅戸が定められ、駅田を耕作し駅馬の飼養にあたったことを考えれば、周囲に村落がなければならなかったはずである。そうすると、郷里名と一致しない駅家名は自然村落の地名をつけたのか、まfこは「榎浦津」「平津」などのように、その駅の機能を示す名でよばれた}とが考えられるのである。『常陸国風土記』行方郡の条には駅家について、次のよ曾尼駅家と板来駅家うな記事がある。行方郡の郡役所より西北方に提賀の里みこがみがある。その北に香島の子神の社があり、その北に曾尼この地に駅家を設け、曾尼の駅とよんでいる。郡役所の西の村がある。に椎井の池がある。}こは香島に向う陸の駅路にあたっている。香澄の里の西の海に新治の州がある。ご}から南一O里に板来の村があり、海辺にのぞんだ地に駅家が置かれ、板来の駅とよんでいる。『大日本地名辞書』は、曾禰郷と駅家について次のように記している。和名抄、行方郡曾禰郷。今玉造町にあたる。即荒原郷、立花郷の南もとは提賀郷内なりしを、水駅なれば分れしならん。けだしされど、此地は東海道の大路の経由すべき所に非ず。蓋国府より鹿なる狭地にて、島への神拝路のみ。弘仁六年、板来と共に廃せられしならん。故に延喜式に載せず。式に同名曾禰あれど、此なると其実を異にす『大日本地名辞書』は、曾尼の駅を水駅としているが、}れは誤りで