ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

律令時代の社会第4章ある。「蓋国府より鹿島への神拝路」としているのは卓説である。『常陸国風土記』にも、曾尼の駅と板来駅の聞の道を「香島に向ふ陸の駅道なり」と記しているので、常陸国府から曾尼の駅を通って板来の駅に着き、そこから鹿島神宮に至る参拝の駅路が設定されていたのである。『常陸国風土記』には、郡役所の南七里に男高の里がある。国宰、当麻大夫のあ時に築いた池が「今も路の東に在り」とある。}の「路」はふっちフの道ではない。駅路の「路」なのである。そうすると、鹿島参拝の駅路は国府l曾尼l提賀|郡街|男高|板来に通じていたのである。豊崎卓『常陸国府・郡家の研究』は、曾尼駅家の位置を現在の玉造町潮来町稲荷台泉に比定し、次のように推察する。「香島に向う駅道は常陸国府(石岡)から東に進み、新高浜をへて小川町に至り、これより幡谷、与沢、倉数、榎本を通り、玉造町泉に着いたと考えられる。}の間一八キロ(四里半)ここから手賀をへて行方郡家に達する。そこから小高、麻生、さらに、第I -61図牛堀をよぎり、現在の潮来町稲荷山の台にあった板来駅家に至ったのであろう。そして稲荷山を下りて今の浜町河岸あたりから乗船して鹿島に向い、大船津に上陸して鹿島郡家に到着したものと判断されるのである」。ずいぶん具体的に地名をあげて、駅路の復原を試みているが、つの目安とはなるであろう。豊崎説によれば、板来駅家は潮来町稲荷山の台にあったことになるが、『常陸国風土記』に「板来の村あり。近くぉ海浜に臨みて、駅家を安置けり」とある「臨みて」の解釈はどうなるであろうか。「臨む」には「目の前にする、面する」その他の意味がある。海浜を目の前にして、海浜に面して、駅家を置いたという状態は、稲荷山の台から海浜を目の前にしたのか、あるいは海沿いの地に置いたのか、今後の調査が待たれるところである。木下良『日本古代律令期に敷設された直線的計画道の復原的研究』に145