ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第四節むらの構造「大宝律令』が施行された大宝元年(七O一)段階にお地方行政区画ける地方の行政単位は、国←郡←里という形をとっていた。常陸国の場合、国府は現在の石岡市に置かれ、国衝の中核部が今の石岡小学校の校庭、すなわち旧府中城跡あたりに推定されている。当時、茨城県域における律令制の郡としては、常陸国に一一郡、下総郡に四郡が設置され、各郡にはそれぞれ郡衝が置かれていた。郡司の政庁である郡街の構造は、その多くが官街群や倉庫群をともなう形態を示すものと考えられている。常陸国一郡のうち現在までにぐうけふるごおり発掘調査によって郡街が確認されているのは、新治郡家の古郡遺跡(協かのむかい和町古郡)、筑波郡家の平沢遺跡(つくば市平沢)、鹿島郡家の神野向遺跡(鹿島郡鹿嶋市)の三郡だけである。さらに河内郡家がつくば市金田台の栄中学校建設にともない一部確認され略測図が作成されている。残りの七郡に関しては推定地とされている地点はあるが、発掘調査などを実施していないことから実態ははっきりしていないのが現状である。潮来地域では、律令期には行方郡に属し、行方郡の郡街の所在地は麻生町行律令時代の社会方の国神神社付近と推定されている。郡の下の地方行政区画としては里があり、五O戸が一里とされた。の後、霊亀元年(七一五)の式によって、里は郷と改められ、新たに一郷ごうりせいを機械的にこから三の里に分割して郷長と里正を置く郷里制に移行した。この改正では、戸の編成も行われ、郷を構成する戸を郷戸、さらに一郷戸をこから三の房戸に分割し、第4章}の房戸が地方行政組織の末端組織の単位として公認された。房戸とは、両親とその子供から構成される小家族程度の範囲と考えられている。郷里制や郷戸・房戸制への改編は、租・庸・調の税を収める農民を、きめ細かく把握することを目的として、中国に見習って実施された制度と考えられている。しかし、」の制度は当時の農民の実生活とは合わない性格であったため、天平十一年(七三九)には郷里制の下部の里が廃止され、郷制へと移行し、同時に郷戸・房戸制も廃止された。}のよ・つに地方の行政単位は、国←郡←郷←里から国←郡←郷の形に変化したのである。」の後、長く平安時代まで受け継がれていく}の行政単位は、とになるが、}うした変化の中で、郷のもつ性格も大きく変化していくことになる。すなわち、郷は里同様、本来は戸の集まった単位を示していたが、郷制への変化と固定化によって、やがて郷はその地域を示す地名へと変化し、以後長く使用されていくようになるのである。あらじくりやだい水戸市の大塚新地遺跡と鹿嶋市の厨台遺跡群からは「郷長」の文字が記載された土器が出土しており、地方行政単位の郷の実態を示す造物として注目されている。土器の年代は八世紀末から九世紀前半のものと考えられ、国←郡←郷制に移行した以後の造物と考えられる。この「郷りょうのぎ長」とは清正強幹な百姓から選ばれた長のことで、その職務は「令義解」や「戸令為里条」によると二戸口の検校、農薬の課殖、非違の禁察、賦役の催駆を掌らせたとされており、)のような働きをもった郷長が確そかに存在したことを示す資料ということになる。郷長に関しては、行方おうが郡逢賀郷(潮来町大賀)から天平勝宝五年(七五三)に貢上された調布に、たけるべのみまろみぷのあたいみやまん「逢賀郷戸主建部身麿、逢賀郷戸主壬生直宮万」の記載があり、逢賀付近に住む郷長が都に布を貢納したことがわかっている。このように、古代における地方行政区画は園、郡、郷、里という階層147