ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代ふったかか〈そう担古高覚宗遺跡は大字延方字古高覚宗に所在し、北浦を臨む台地上に立地している。調査により竪穴住居跡二七軒、土坑一O基、炭窯一O基、柵列二条が確認されている。竪穴住居跡を時期別にみると、縄文時代のEものが一二軒、弥生時代のものが一軒、古墳時代のものが一五軒、奈良・平安時代のものが四軒、時期不明のものが四軒となっている。奈良・平安時代の住居跡からは須恵器の聾や土師器の杯、聾、羽釜、土玉などが出土している。遺跡は発掘調査を実施した地点の南東側に広がっていることが考えられる。訂梶内遺跡は大字水原字梶内に所在し、北浦を臨む台地上に立地している。調査により竪穴住居跡二五軒、近現代の墓穴二五基、道路跡一条が確認されている。竪穴住居跡は古墳時代のものが二ハ軒、奈良・平安時代のものが八軒となっている。奈良・平安時代の住居からは土師器の杯、畿、甑、須恵器の杯・聾、鉄製万子、砥石、石製紡錘車などが出土している。おおがたての回大賀立野遺跡は大字大賀字立野に所在し、小規模な半島状の台地に立地し、竪穴住居跡五六軒、平安時代の鍛冶跡七基、土坑二五基、溝二条が確認されている。竪穴住居跡は古墳時代のものが三八軒、奈良時代のものが四軒、平安時代のものが一二軒、時期不明のものが一一軒となっている。奈良平安時代の住居跡からは土師器の杯、椀、聾、須恵器の杯、護、石製紡錘車、砥石、土玉などが出土している。遺跡は台地の東側に広がり、大生古墳群付近まで広がる可能性が考えられる。いずれも掘立柱建物跡が伴わず、住まいは竪穴住調査された遺跡は、居だけで構成されている。)のことから、奈良・平安時代における潮来町の集落は、現時点おいては、竪穴住居跡が主体となって構成されていたものと考えることができる。それぞれの遺跡からは、奈良・さらに、平安時代以前の古墳時代の竪穴住居も多数確認されている。古墳時代の150住居跡には切り合いがあり、密集している状況がみられるが、奈良・平安時代の住居跡は比較的ゆとりが感じられるような住居配置になっているこのような状況から、奈良・平安時代には住居跡と住居跡の聞には黒井峯遺跡でみられたような道路や畑などが展開していた可能性も考えられる。むらの構成潮来町の地形をみると、北部の台地と南部の低地(水田面)に分れている。台地は北浦村や麻生町から伸びてくる行方台地で、潮来町はその最南端に位置している。台地の標高は三五メートル前後で、北浦側や南東部の水田面から谷津が樹校状に入り込んでいる。現在までに潮来町で確認されている奈良・平安時代の遺跡は、すでに発掘調査が実施された五遺跡である。しかし、表面採取を行ったところ五遺跡の他にも、北部の大生神社周辺、台地区、瀬古地区、中部の築地地区、貝塚地区、中台地区などで土師器や須恵器が採取でき、奈良・平安時代の遺跡が台地上に数多く存在していることが予想される。潮来町の遺跡の特徴は、地形的な制約から、遺跡が存在する場所も北部地域に集中する傾向がみられることである。さらに、個々の遺跡は一時代だけの単一遺跡ではなく、いくつもの時代にもわたる複合遺跡という点である。実際に発掘調査をした五遺跡でも奈良・平安時代の他に、古墳時代の住居跡も確認されており、古墳時代からの継続集落となって、'30、v・4 F1県内の奈良・平安時代の集落には次の三タイプの集落が存在すると考えられている。(A)古墳時代前期に集落がつくられ、平安時代まで継続するタイプ、(B)古墳時代後期に集落がつくられ、その時期に住居軒数