ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

二世紀代の竪穴住居は、平面形は長方形に統一され、住居の規模は一O世紀代の住居よりもさらに小さくなり、掘り込みもより浅くなって、h OLAさらに、古墳時代後期から付設されてきたカマドが消滅し、古墳時代後期以前の竪穴住居にみられた炉が再び付設されるようになる。潮来町では現在までにこの時期に該当する住居跡はみつかっておらず、潮来町の対岸の鹿島町厨台遺跡群第九三号住居跡がこの時期の竪穴住居である。以上のように、平安時代の一一世紀代までは、ほとんどの人びとが縄文時代以来の竪穴住居で生活していたことがわかる。住居の内部施設の変化では、縄文時代から古墳時代中期までは煮炊き・照明・暖房の三役を果たす炉であり、古墳時代後期になるとカマドへと変化し、平安時代一O世紀までこの状況が続いていく。カマドに変化したことによって、これまで三種の役割をもっていた炉とは異なり、調理だけの施設へと転化していくことになる。そして一一世紀になるとカマドから再び炉に戻り、その炉が中世において一般的な施設となっていく囲炉裏へと発展したことが考えられる。県内においては竪穴住居が二二世紀中葉まで存在したことがつくば市柴崎遺跡の調査などによって確認されている。しようもんきかれている「将門記」一方、平将門の事績が描の中には一O世紀ごろの領主の館の様子が記載律令時代の社会されている。それによると領主の館は「営所」や「宅」とよばれ、領主と家族が住む建物のほか、倉庫や厩、鍛冶、武具、織物などをつくる工房などが存在している。}のような記述に従えば、閉じ常陸圏内に住みながら、館とよばれる塀に固まれ、広い敷地を所有する有力者と、依然第4章として竪穴住居に住み続けざるをえない階層の人びととの格差は歴然としていたことが想像されるである。155