ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代のようです。Eこれらの記事の中で、自然林に関するものは、行方郡山・ω・凶・附-m・附・附・側、香島郡山・問、久慈郡山・問、多珂郡山である。行方郡山の槻野の清泉は、野原の中に大きな槻があったので、槻野といったのか、あるいは槻の原生林なのか明らかでない。槻の原生林なら自然林と神社ば自然林に属する。しかし清泉が湧いており、そこで倭武天皇が玉をもって清泉を杷る水辺儀礼をしているのをみると、槻の巨木の側に清泉があったようにも思われる。行方郡山川にも郡街の南の門に一本の槻の巨木そこに水の沢があったとみえるので、槻と水の関連が知られる。はっせゆっき『万葉集』巻一一の二三五三の歌に、「長谷の斎槻が下にわが隠せるあかね妻茜さし照れる月夜に人見てむかも」、二六五六の歌に「天飛ぶや軽のいわいっき社の斎槻幾世まであらむこもり嬬ぞも」とあるように、槻は神霊の降るよりしろにい包めや依代と考えられていたのである。『古事記』雄略天皇の段にも、「新嘗屋おももだほっえおに生ひ立てる百足る槻が枝は上枝は天を覆へり中つ枝は東しつえひな下枝は聞を覆へり」とあり、新嘗儀礼とも関係のある聖樹があり、を覆へりであったのである。そして、槻に降る神は、雨をもたらす雷神であったょうである。ー『震2万霊2葉の集Ib-巻第の九が一月Z三のの歌ひかをる内エの清秋き引の御き赤2目撃よ葉3屋ぢのしてま垣?ぐき内ごれ持田よのての降るれ池ばの堤のふさ手折り雁がねも未だ百足らず来鳴かね神瑞宇奈枝え備さのす小鈴もゆらにわいせ槻女めがに枝吾はあれども枝もとををに吾は持ちゆく君がかぎしにとあるように、神奈備の清い神田の御田小屋の垣内の田の池の堤に生えていた槻の神木は、雨を降らせる雷神の依代であった。だから槻野の清160泉で水辺儀礼をしたり、郡街の門の井の側に槻が生えていたのである。また行方郡聞の郡街の側の村里に橘の樹が生えている、とあるのは自然林ではなく植樹と思われる。橘は香島郡聞に、「以前、郡街の置かれた所である。橘がたくさん植えられており、その果実は美味である」とみえるので、植樹であったことが知られる。しかし、単なる植樹ではなししんい。「左近の桜、右近の橘」で有名なように、京都御所紫震殿の左に桜、右に橘を植えたのは、桜は花、橘は実で「春耕秋収」の農事暦の指標とされたのである。橘が行方郡や香島郡の郡街や郡衝の近くに植えられていたのも、食用だけでなく農事暦との関係もあったのであろう。行方郡聞の夜万の神が池の周囲の椎の木に昇り集まったとか、池のそばに椎の木があったので、椎井の池と名づけた、とあるのは、周囲の自然林を伐採し、夜万の神を杷る池のほとりの大きな椎の木を残したように恩われる。行方郡附の栗家の池は、大きな栗の木が池の側にあったので名づけた、とあり、池の西の山に草木が密生しており、猪、猿がたくさんすんでいた、というのも、国宰、当麻大夫が池を築くとき自然林を伐採し、大きな栗の木を残したことが考えられる。また北に香取の神の子神の社があるのも注目される。行方郡聞の板来の駅家の西に、「榎の林がある」とあるのは自然林のようにも思われる。しかし、榎だけの自然林はおかしいので、植樹したfこものが林をなしたものであろう。}の地は天武天皇のとき、「麻続王が遣わされていさせたところ」とあるので、ただの場所ではなく聖地として守られていたことを思わせる。榎は柳とともに霊域の神樹を示したゅ「斎の木」といわれているのも、そのことを裏付ける(渡辺昭五「榎の歌