ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代行方郡附には、香澄の里の東の山に「社」があり、榎、槻、椿、椎、やだけはますげ竹、箭、麦門冬などがあちこちにたくさん生えているとみえる。}の自然林は「社」とよばれる聖地であったことが知られる。そうすると、行あがたかみらりこれを県の紙という。社のE方郡の条に「郡街の東に国つ神の社がある。中に清泉があり、大井という。郡街の近くに住んでいる男女たちは、の井戸のもとに寄り集まり、その水を汲んで飲む」とある、県の紙の「社」にも榎、槻、椿、椎などの自然林が守られていたことになる。行方郡仰には、当麻の郷の野原は土がやせているが、紫草が生えている。ここには香取と香島の二つの神の子神の社があり、社の周囲の山野ははそには様、作、栗、柴があちこちに生えて林をなし、猪、喉、狼がたくさんすんでいるとみえる。「作」は今日の楢を指すというが、体惜や柴の総称ともいわれる。行方郡川には、波須武の野の北の海辺に香島の神の子神の社がある。土はやせていて様、作、機、竹がてこか所に生えているとみえる。検は内皮を薬用とするほか、ついて粉にし食用にもした木である。香島郡聞には、高松の浜には大海の波によって流し寄せられてきた砂と貝とが、積もって高い丘となっており、そこには自然に松林ができて、'30、h w-aF1その林には椎や柴も交じっていて、まるで山野のようであるとみぇ、砂丘にできた自然林の姿を伝えている。またそこから南の軽野から若松の浜に至る聞の三O里あまりには、まつほどねあるまつほど松山に伏苓と伏神を産し、毎年掘るとあるがずっと松山が続いている。この松山も自然林であろBフ。これらの自然林は「香島の神の神域にあたるので、だれでもたやすくそこに入って松を伐ったり、砂鉄を掘ったりすることはできない」とあるように、香島の神の神域として保護されてきたのである。『常陸うねめ国風土記』には、慶雲元年(七O四)に国司であった媒女朝臣が、鍛冶師さびのおおまろの佐備大・麿らを連れて若松の浜に産する砂鉄を採り剣を造ったと記され162ている。この砂鉄を製錬するためには、多くの燃料としての松が消費されるので、自然林の松山から木が伐採されたことが考えられる。久慈郡聞には、高市から東北二里に密筑の里がある。村の中に清らかF)な泉があり、土地の人は大井といっている。その水は夏は冷たく冬は温かい。湧き流れて川となっている。夏の暑いころになると、あちこちの郷里から飲食物を持参して男も女もここに集まり、飲食し遊んで楽しむ。密筑の里の東と南は海辺に臨んでいる。また西と北とは、山野につらなっている。椎、様、権、栗が生えていて、鹿や猪がすんでいるとみえる。密筑の里の西北の山野は現在、大聾とよばれる地で、さにわあたっており、高市のなかの沙庭(神を招いてお告げを聞く場所)的な地いわゆる山口にとして神聖視されていたようである(志田誇一「大裂という地名について」『目立史苑』四号)。だから雑木の自然林が保護されてきたのであろう。以上のほかに『常陸国風土記』信太郡の条に乗浜の里の東に浮島の村がある。長さ二OOO歩、幅は四OO歩である。四方を海で固まれており、山地と野原が入り交じっている。戸数一五戸、田は七、八町ばかりである。住民たちは塩を焼いて生計をたてている。九つの社があり、人びとは言行ともにつつしんで、、h v!〉。gd-のとある。浮島の山野にも自然林があったことがうかがわれる。すめる百姓が塩を焼いて暮らしをたてている、というのであるから塩を焼くための燃料を消費したことになる。}の燃料としての木を島の山野から伐採したのか、他から舟で運んできたのかは明らかでないが、島内には神社が九つもあり「人びとは言行ともにつつしんだ」とあるので、「社」としての自然林を伐採したとは考えられない。