ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代第一Oにも和泉国和泉郡山道の里の村人が、山にはいって薪を拾う話がみえ、中巻第二ハには、讃岐国香川郡坂田の里の人が召使と一緒に山にはいって薪を拾い、枯松に登り足をふみはずして落ちて死んだ話がみえEる。また下巻第三八にみえる、『日本霊異記』の著書景戒の言葉に、俗家に居て、妻子を蓄へ、養ふ物無く、塩無く、衣無く、薪無し。万の物毎に無くして、思ひ愁へて、我が心安からず。昼もまた飢え寒ぇ、夜もまた飢え寒ゆ。やまのうえのおくらとあるので、薪は衣食とならんで重視されていたのである。山上憶良の貧窮問答の歌にも、雨や雪の降る夜、飢えて寒さにふるえている農民の姿がみえ(『万葉集』巻第五)、薪は炊事、暖房、灯火用として多量に消費され、薪を集めることが農民にとって大切な仕事となっていたのである。けれども薪は、たやすく拾うことはできなかったようである。『続日本紀』慶雲三年(七O六)三月十四日条には、}のごろ王公諸臣が多くの山沢を不法に独占し、百姓が柴草を採ろうとすると、その器を奪って大いに辛苦させているとみえる。また延暦十七年(七九八)十二月八日の太そうたく政官符にも、山川薮沢は公私利を共にすべきなのに、寺院、王臣家、豪民らが憲法をはばからず、独り利潤を貧って広く山川薮沢を包み、農民が草やたき木を伐ることを禁じて、鎌や斧を奪い取っていると記されている(『類衆三代格』巻二ハ)。畿内や周辺諸国の山川薮沢は、寺院や王公諸臣、豪族の占拠するところとなり、農民が自由に薪を拾うことが困難になっていたのである。のため農民は、しだいに山深く分け入って薪をとることになったのである。常陸国でも薪を拾うことは困難であったにちがいない。はじめは住居の周辺の自然林から薪をとったが、長い間の伐採で自然林が少なくなり、村里の付近では神社の周囲の自然林を残すだけになってしまったのおてもこのではないだろうか。『万葉集』巻第一四の三三九三に、「筑波嶺の彼面此ももりぺすえも面に守部居母い守れども魂ぞ逢ひにける」という歌がみえる。筑波山の164あちら側にもこちら側にも山の番人をおくように、お母さんが番をしているけれど心は逢ってしまいましたよ、と沢潟久孝『万葉集注釈』には訳されている。}の歌にみえる「守部」は山守部で、山の番人をさしている。山守に関する歌は『万葉集』巻第二の一五四にも、「さLなみのしめ大山守は誰か山に標結ふ君もあらなくに」とみえる。ささなみの大山の番人は誰のために、山に標を結いめぐらして番をするのか、君もおいでにはならないのに、という意味である。「ささなみ」は近江の大津宮のあたりを指した地名である。大津宮近くの御料の山には、山守という番人が置かれていたのは当然であるが、筑波山のあちら側やこちら側に山守が置かれていたのは意外である。古代には筑波山にも、山の番人を置かなければ、自然林を守ることができなかったのであろう。薪がいかに大切であったかは、つぎの話からもうかがわれる。『日本霊異記』上巻第二Oに、延興寺の僧であった釈恵勝が、生きていたとき寺で湯をわかすために用意していた薪一束をとって、他人に与えて死んだので、その寺の牛に生まれて薪を載せた車を引き、休む間もなく追い使われた話がみえる。恵勝は寺の湯をわかすための薪一束のために、牛に生まれかわって苦便されたのである。天平十二年(七四O )十二月二日の写経司解には、薪一束の値段は七文そで一日の湯沸料は薪一束とみえる(『大日本古文書』二)。毎日使う薪を購入するとなると、農民にとってかなりの負担になることは間違いない。景戒の言葉に、「菜食無く、塩無く、衣無く、薪無く」とあるのは、東七文の薪を買う銭がなかったことを意味している。薪を買うことのできなかった村人たちは、子供まで動員して山奥深く分け入って薪を拾っ