ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

この説話は、椎井の地名の由来を述ぺたようにも思われるが、、っ一事』、hwJJいこの話が本当に古老が伝えた旧聞の内容なのであろうか。従来の研究をみると、}の説話を単純に解釈し原野開拓の際の人間と自然神の戦いを示すとか、未開発地の庶民が先進地の指導者によって開発される過程を象徴する、という見解に立つ者が多い。たしかに六世紀初めの継体天皇の時代に谷の葦原を開発した箭括氏麻多智は、開墾を妨げる夜万の神に対して、大いに怒り甲鎧をつけ、位(武器)をとって打ち殺し、追いはらっているが、山の入り口に境界の杖を立て、それより上を神の地として認めている。しかも社を建てて自分が祝(神職)となって、夜万の神を祭るのである。その後、七世紀半ば近くの孝徳天皇の時代に壬生連麿は、夜万の神のすむ谷に池の堤を築いて濯翫用水にしようとすると、夜万の神は池のほとりの椎の樹にのぼり集まって去らないので、役民に打ち殺すことを命じているのである。壬生連麿は夜万の神に対して、少しも尊敬する態度をみせていないのである。しかし、箭括氏麻多智が甲鎧をつけ、伎をもって夜万の土地の神霊神を打ち殺し、追いはらったというが本当であろうか。夜万の神はたんなる蛇ではないのである。「其の形は蛇の身にして頭に角あり」という姿をし、そのうえ「時に見る人あれば家常陸国風土記と行方郡門を破滅し、子孫継がず」といわれてきた霊異すさまじい土地の神であやちやつやとったはずである。東国では山地の谷合いを谷地、谷津、谷などとよび、そこから湧く清水を利用して谷津田を聞いたのである。夜万の神はその土地の神霊であり、オオナムチの命や大物主神、あるいは大国主神などいわゆる国魂でもある地主神を打ち殺と同じ神格をもっ地主神である。第5章し、追いはらってしまったのでは、開発はもちろん、稲作さえもできないというのが、古代社会を通じての農民の気持であった。夜万の神の姿を見ただけで、家内が絶えてしまい、子孫がいなくなってしまうというものを打ち殺してしまったらどういうことになるのだろBっか。この説話に麻多智が耕田一O町あまりを開拓し、麻多智の子孫が代々継承して神祭りをし今に至るまで続いているというのであるから、本来は麻多智は夜万の神の姿を見なかったことになる。この説話の元の筋は、麻多智が神の祝となって夜万の神を敬い祭り、葦原を開発したので、その結果、耕田一O町あまりを聞くことができ、子孫が繁栄することになった。だから今に至るまで、夜万の神を祭っている、といった土俗的内容のものであったにちがいない。したがって、麻多智が夜万の神を打ち殺したり、追いはらったりするのは、この説話をまとめた編纂者の意識なのである。また、壬生連麿が夜万の神を水源地から追いはらうために、使役していた農民にむかつて「目に見える一切の物をはばかり恐れることなく、みな打ち殺せ」と命じているのも問題である。壬生連麿は茨城国造であり、行方郡の建郡者でもあった人物である。国造はその土地の地霊である国魂を祭って、稲作などの豊穣を祈念するのが本来の職務である。その国造が国魂である夜万の神を打ち殺せ、と農民にむかつて絶叫しているのは、当時の事実とは全く反した姿である。)ういうことをしたら農民に打ち殺されるのは夜万の神ではなく、むしろ壬生連麿の方ではないだろうか。したがって、「この池を修理するのは、要するに人びとを活かすためなのだ。それなのに、いったいどこのどういう神が天皇の教化にしたがわないのか」と大声で叫んでいるのは、風土記の編纂者である国司の土俗的な田舎の郡司層に対する教化の声なのである。『常陸国風土記』が編纂された養老年間(七一七1七二三)は、荒野の167