ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代閑地を開墾して水田を拡大する政策が実施された時期である。『続日本紀』養老六年(七二二)閏四月二十五日の太政官奏によれば、人夫を徴発ζうゆして「膏映の地(肥えた土地)」に良田(よい水田)一OO万町を開墾するいつわずることを命じている。もし国司や郡司が「詐りて逗留を作し」開墾しないおんしゃ者があれば、解任して思赦のときでも免さない、という厳しい命令であEった。国司や郡司が詐わってコ逗留」をなし開墾しない、というのはどういうことであろうか。「逗留」の「逗」は「広漢和辞典』によれば「とどまる。とどめる。まがってゆく。さけてゆく」とあり、「逗留」はごか所にとどまる。長くとどまる。滞在」などの意である。おそらく、国司、郡司たちが荒野の閑地に水田を開くことを、種々の理由をつけてためらったのではないだろうか。良い水田が開ける地といえば、)には夜万の神がいると思われていたからである。かつて、}の壬生連麿と同じ七世紀半ばころに生存し祖霊と蛇ていた虎塚古墳の被葬者は、赤で描かれた連続三角文じゃのめや大きな蛇目文のある横穴式石室に安置されていた。古代においては、祖先の霊や死者の霊は蛇の姿であらわれると考えられそうじんきろていた。中国や朝鮮でも同じ思想がみられる。『捜神記』には、魯の定これを占うと九代ようにわたって祖先の廟を祭っていなかったことがわかった。そこで、場きゅうまおうたい宮をたて祖先を祭ったとみえる。また長沙馬王堆一号漢墓出土の幡の最公元年に九匹の蛇が宮殿の柱に巻きついていたので、下部の吊画は、地下の世界をあらわしているが、そこに一匹の大蛇が描しらぎか〈きょせいかれているのも興味深い。『三国遣事』には、新羅の始祖赫居世王が在位六一年で崩じ、まもなく后も亡くなったので、国人が合葬しようとしち〈きんたところ、大蛇がでできて逐禁したとあり、赫居世王の墓を蛇陵と称したといわれる。かみつけののきみ『日本書紀』仁徳天皇五五年条には、上毛野君の祖国道が蝦夷に敗れしのみなとて、伊崎水門で死んだので墓をつくった。その後、ふたたび蝦夷が襲っ168てきて田道の墓を掘ったところ、大蛇がでできて蝦夷を食い殺したとあるので、死者の霊と蛇の関連は決定的である。そして現在でも茨城県稲敷郡河内村では、八月十三日の月遅れ盆に、子供たちがマコモを刈とって、長さ一0メートルにもおよぶ大蛇を作り、大蛇の体に死者の霊魂を入れ、それを各家庭に送り届ける行事が行われている。死者の霊が蛇形をして長く生存し、その家族を守護するという観念や信仰は広く世界の諸民族の聞にみられ、タイラ!の『原始文化』やフレイザlの『金枝篇』に多くの報告がなされている。そ死者の霊魂は蛇と結びつき三角文や連続三角文で象徴さ三角文の謎れてきた。三角文について柳田国男は、おにもち角、ちまきの三角、沖縄の鬼餅などが先祖祭りに関係がにぎりめしのあるので、人間の心臓の形をかたどったとし(「食物と心臓」『定本柳田国男みはかた〈まぐす集』第一四巻)、南方熊楠は女陰の象徴とみる(「三角の銀杏」『南方熊楠全いずれも本質をついていない。三角文は蛇を象徴す集』3)。しかし、る鱗をかたどっているので、正しくは鱗文とよぶべきものである。三角いん形や菱形をもって、蛇の鱗を象徴した歴史は古い。古代中国の股時代のにゆ,っこいFヲ造物、乳虎由にみえる蛇は、胴に三角形の鱗文がつけられており、西周さくさっか抱え初期の作冊大方鼎につけられた蛇の胴にも菱形の鱗文がつけられている(林巳奈夫「殿周時代の遺物に表わされた鬼神」『考古学雑誌』四六二己。ゃっかや島根県八束郡鹿島町佐陀宮内にある佐太大社に伝わる佐陀神能で、八またのおろ色あんちん岐大蛇は鱗小紋の着物をつけて蛇身をあらわしており、安珍を追って日高川を渡る清姫が、鱗形の模様のある衣裳をつけて蛇身を表現し、三角形を三つ組み合わせたものを三つ鱗と称しているのは、鱗文や連続鱗文