ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第三節麻績王おみのおおきみ麻績王は麻続王とも室田かれる。『日本書紀』天武天皇麻績王の説話因:四播戸年・.': /\flf七九五四月十J\日条はの子をば明め雪量;き清f流コ塑号す云富;一度天の辛皇子孟突を宥は武血ちりかのしま鹿島に流す」とある。『万葉集』巻一には、の代の歌として、つぎのようにみえる。か抱いた麻続王の伊勢国の伊良虞の島に流さるる時、人、哀しび傷みて作る歌そあま打ち麻を麻続王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります-』たこれを聞き感傷して和ふる歌麻続王、うっせみの命を惜しみ浪にぬれ伊良虞の島の玉藻刈りをすかんが右、日本紀を案ふる日はく、天皇四年乙亥の夏四月戊成の朔の乙卯、一子をば伊豆の島に流さる。子は血鹿の島に流さるといへり。ここに伊勢国伊良虞の島に配さるこル』Jほト品目けだし後人歌の辞に縁りて誤り記せるか。二位麻続王罪有り、因幡に流さる。といふは、常陸国風土記と行方郡また、『常陸国風土記』行方郡の条には、此より(香島の里)南十里に板来の村あり。近く海浜に臨みて、駅家おあすかを安置けり。此を板来の駅と謂ふ。其の西、榎木林を成せり。飛鳥きよみはらやの浄見原の天皇のみ世、麻績の王を遺らひて居らしめし処なし。其みるおうにしうむぎさわおの海に、塩を焼く藻、海松、白貝、辛螺、蛤、多に生へり。第5主と記されている。以上が麻績王に関する史料のすべてである。麻績王の系譜や伝記は不明なので、知るところは少ないが、天武天皇四年四月十八日に罪があって、「因播」に流されたのである。そのとき麻績王はコ二位」とみえる。『日本書紀』天武天皇四年三月十六日条に、「諸王四位栗隈王を兵政官長とす」とあるので、天武朝には諸王もあらためて位階制のなかに組みこまれたのである。しかし、その位階は諸臣とは区別され、「諸王」としての位階をもつことになったのである。したがって、麻績王は正しくは「諸王三位」であった。『日本書紀』つぎのような諸王の位やかき階がみえる。天武天皇五年九月条に筑紫大宰三位屋垣王、天武天皇八年かずらき三月条に吉備大宰石川王に「諸王二位」追贈。七月条に四位葛城王、天ごんくはいとねり武天皇九年七月条に納言兼宮内卿五位舎人王、天武天皇十一年六月条にえ〈り五位殖栗王、天武天皇十二年十二月条に諸王五位伊勢王などである。によると、天武朝には栗隈王・麻績王のほかに、これらの諸王の位階に比ぺても麻績王の位階は高いほうであり、筑紫大宰の要職に匹敵する地位にあったのである。その麻績王がなぜ因幡に流されたのであろうか。しかも子の一人は伊豆の島(伊豆の大島か)、もう一人の子は血鹿島(長崎県の五島列島)に流すという父子別離の流罪であった。『日本書紀』には「罪有り」と記すだけで、それ以上のことを伝えていないが、なにか背後に穏やかならぢる気配が感じられるのであるというのは、麻績王流罪の直前にあたる天武天皇四年四月八日に、小たさまのきみくののおみ錦上当摩公広麻呂と小錦下久努臣麻呂の二人が、朝廷への出仕を禁じる勅をうけているのである。さらに十四日に久努臣は詔命をおびた使に逆〉、、Jtvι、vその命を拒んだため、出身以来の官位をことごとく奪われているのである。その直後に麻績王父子の流罪が行われているので、なんらかの関連をみたいところであるが、明らかでない。いずれにしても、近江171