ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代製塩、航海などを生業とした海洋民である。『日本書紀』応神天皇三年さばめ十一月の条に、ぼうぼうの海人が一拙彪いて、命令にしたがわなかった。あずみのむらじそこで、阿曇連の祖である大浜宿禰を遣わして、その一拙彪を平らげた。みことも色そして海人の宰とした、とあるので、阿曇連は海人を統率する氏族でEあったことが知られる。『新撰姓氏録』には安曇氏を筆頭とする多くのわたっみ海人族が記されている。同書の右京神別下には、安曇宿禰(海人綿積豊あまのいぬかいおおしあま玉彦神の子、穂高見命の後)、海犬養(海神綿積命の後)、凡海連(同じあおみのおびとやさのみやっこわたっみ神の男、穂高見命の後)、青海首(椎根津命の後)、八木造(和多罪豊玉ふるたまわたかむしりつ彦命の児、布留多摩万命の後)、倭太(神知津彦の後)などの氏族がみえ阿曇は安曇とも書き、る。大和国神別には、大和宿禰(神知津彦命より出づ)がみえ、摂津国神みものす〈ね別には、大和連(神知津彦命十一世の孫、御物足尼の後)、凡海連(安曇おたく屯し宿禰と同祖。綿積命六世の孫、小拷梨命の後)、阿曇犬養連(海神大和多ほこっくものいみのあたい羅命三世の孫、穂巳都久命の後)、物忌直(椎根津彦命九世の孫、矢代宿禰の後)などの氏族がみえる。河内国神別には、安曇連(綿積神命の児、とね穂高見命の後)、等禰直(椎根津彦命の後)などの氏族がみえるのである。また『和名抄』にも、海人に関連する多くの郡、郷名がみえる。東海おおみ道では伊勢国河曲郡海部郷、尾張国海部郡海部郷、三河国碧海郡碧海郷、遠江国敷智郡海間(阿万)郷、上総国市原郡海部郷が記されている。東山道では美濃国厚見郡厚見郷、信濃国安曇郡、同国小県郡海部郷が記されている。北陸道では越前国坂井郡海部郷、能登国羽咋郡大海郷、越後国蒲原郡青海郷が記されている。山陰道では丹後国加佐郡凡海郷、同国熊山野陽郡道海で部は郷喜一国書明更ι:z:>:訴易E主お函Il実Z蓄郷卦郷備田中岐園田主器Z工芸/(郡部阿遍満部縄郷プ"益田記困さ佐れ伯て郡ぃ海る(海部か)郷が記されている。南海道では紀伊国海部郡、淡路国三原郡阿万郷、阿波国那賀郡海部郷、土佐国高岡郡海部郷が記されている。西海174道では筑前国恰土郡海部郷、同国那珂郡海部郷、同国糟屋郡阿曇郷、同国宗像郡海部郷、豊後国海部郡が記されている。以上の諸国のほかにも、海人族の分布を示す史料はかなり存在する(黛弘道「海人族と神武東征物語」『律令国家成立史の研究』)。『万葉集』やこれらの海人の生態を伝える歌や物語がみえる。『万やまのうえのお〈ら葉集』巻二ハの「筑前国の志賀の白水郎の歌十首」は、山上憶良の歌で『風土記』には、あるが奈良時代の筑前国の海人の生業をよく描いている。また『出雲固めわぴ風土記』出雲郡の条には、「飽は出雲の郡尤も優れり。捕ふる者は、謂はゆる御埼の海子、是なり」とあり、『肥前国風土記』松浦郡の条には、景行天皇が大家の島に巡幸し、この村の土蜘妹を滅ぼした「爾より以来、すめぐり白水郎等、此の島に就きて宅を造りて居めりき:::廻縁の海に、胞-螺・鯛・雑の魚、及、海藻・海松多し」として、海人の集落を伝えている。麻績王父子に限らず、罪を得て配流されたところは海辺の地と流刑絶海の孤島や都を離れた海辺の地が多かった。そのために海人との人間的交流が深まったのである。『古今和歌集』巻九には、承和五年(八三八)十二月十五日、罪のため隠たかむり岐国に配流になった小野重朝臣の歌がみえる。わたの原やそ島かけて潜ぎ出でぬと人には告げよあまの釣舟「ひろびろとした海の多くの島々に向かって、自分はいま漕ぎ出したと、都にいる妻に告げてくれよ。漁師の釣舟よ」という意味である。小野筆は延暦二十一年(八O二)、参議小野山今守の子として生まれた、名門の貴族である。承和元年(八三四)、遣唐副使に任命されたが、大使藤原常嗣の船が出航前に破損したので副使の船と交換された。重は怒っ