ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
て病気を理由に副使を辞退し、「西謡道」を作って遣唐使のことを調刺したため隠岐の島に流罪となった。三七歳のときである。隠岐での筆は、もう一首の歌を詠んでいる。『古今和歌集』巻一八には、ひな思ひきや都の別れにおとろへて海人の縄たきいさりせむとはとみえる。「かねて思ったことであろうか、思いもよらなかった。遠い島に流され、別れてきて、心も衰えて、漁師たちの業である縄をたぐり漁をしようとは」という意味である。配所での筆が、「海人の縄たきいさりせむとは」と詠んでいるのは、麻績王の「麻績王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります」という情景に似たところがある。したがって、ここにも貴種流離物語の要素がみられ、海人と筆の深い人間的交流が認められるのである。ただ筆の隠岐での生活は一年二か月ほどであり、承和七年二月、都に百還されているので、貴種流離物語に発展しなかったのであろう。『古今和歌集』には、もう一つの貴種流離物語の要素をもった歌がみえる。巻一八に田村の御時に、事にあたりて津の国の須磨といふ所にこもり侍りけるに、宮のうちに侍りける人につかはしける在原行平朝臣常陸国風土記と行方郡わくらばにとふ人あらずぱすまの浦に藻塩垂れつつわぶとこたへよありはりのゆきひらとある。在原行平は平城天皇の孫。阿保親王の子である。文徳天皇の御代に「事にあたりて」というから、どういう事件か不明であるが、流罪になって須磨に閉じこもっていたことがあったのである。そのおりに御所に仕えていた親しい人に、「たまたまに、私の安否を尋ねる人があっ第5章たなら、須磨の浦で、海人と同じように藻塩を垂らし、袖を一涙でぬらしぬらして、悲しく暮らしていると答えてください」という意味の歌を詠んでおくつたというのである。この歌にも行平が都から遠く離れた海辺で、海人の生業に接し、藻塩のぼたぼた垂れるように袖から涙がしたたり落ちる、としているあたり、行平と海人との人間的交情がうかがわれる。海人との生活実感をとらえたこの歌は、『源氏物語』の須磨の巻ゃ、謡曲『松風』などに引用され、後世にも愛請されたのである。『本朝通紀』前編には、「野史俗紀に載つぎのような物語を記している。へん行平、嘗て罪在り、須磨浦に左遷す。庇所に在ること三年。徒然日ぺんぎいんを遣うの余り、松風・村雨の二海女を顧阿し、之と戯淫す。す」として、貴種流離謹の趣が感じられるような物語である。175