ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代佐賀県東部から熊本県にかけて濃密に分布する装飾古墳と杵島唱曲が、黒潮によって伝流したというが、有明海沿岸の地を洗った黒潮が果たして常陸の海に流れてくるであろうか。有明海沿岸を洗う黒潮は、対馬海E流となって日本海に流れていくのであって常陸には流れてこない。むしろ黒潮による常陸との結びつきを考えるのならば、黒潮の本流がその沿岸を流れる日向国(宮崎県)との関係をみるべきであろう。しかし、日向と常陸は文化的にはあまり結びつかないのである。ということは、海上の道をあまり重視することはできない。このように、建借間命と杵島唱曲を結びつけることには問題があるが、いかだ建借間命が海浜に船を連ね、械を編み、雲の蓋を飛ばし、虹の腔を張り、天の鳥琴、天の鳥笛を演奏し、杵を鳴らし曲を唱って、七日七夜、遊楽歌舞し、音楽を聞きに浜に集まってきた賊をみな殺しにした、というのは、那賀国造の初祖が海の祭りや舟軍にも特別な才能を持っていたことを一不している。また、建借間命が伊多久の郷(潮来町)、布都奈の村(潮来町古高または桜川村古渡)、吉前の口巴(潮来町江崎)など行方郡の地の賊を平定するようになっているのは、}れらの地が行方郡建郡以前には那賀国造の領域になっていたからである。『常陸国風土記』に建借間命の命令をうけた騎兵が、凶板来の地名賊らを「痛く殺す」といった地を伊多久の郷といった、という地名の白来は問題がありそうである。『新編常陸国誌』は、「伊多久ハ苦痛ノ意ヨリ出タリトアレド、恐ラクハ左ニアラジ、別ニ意アルベシ、一説ニ伊多ハ潮ヲ云ヘル方言ナリコノ地流海-一浜シ、潮水ノ来到スル所ナルユエニ、伊多来上五ヘルトゾ、サレド尚詳ナラズ」とする。『鹿島士山』も「板来と書たるを、西山公、鹿島に潮宮ありて、常陸の178方言に、潮をイタといふは、輿ある事とおぼして、かく書改られたりとか」と述ぺている。しかし、宮本元球は『常陸国郡郷考』巻八で、「按、板来後板久に作る。元禄十二年に潮来に改めて訓は旧の如し、鹿島摂社潮宮の訓によると云ふ。然れども其潮宮は高倉下を祭るとあれば、紀果有落剣、立於庫底板、か、潮宮と書て、の故事にて、板宮とは称すべきに、何の故ありていたとは訓ぜし」としている。イタが潮をいう方言で、イタ(潮水)が来るのでイタクといった、とし、うのも説得にとぼしい説である。黒崎貞孝の『常陸紀行』には、「行方あした〈る郡に板来村あり。今潮来といふ。国学者云、潮来は朝来なり。朝来の反切イタコなりと。朝来は倭名妙に板来と見ゆ。風土記にも板来と云。板来如レ此明了なるを、彼此の反切を論せる、蛇足なるものなり」とある。これらの説に対して、松岡静雄『日本古語大辞典』は異色の説を記している。イタコの名の所由について、『風土記』に建借間命が賊を討滅するときイタク殺せといったからと説明してあるのは信をおけない。『万葉集』に「イラヨの島に玉藻かります」と謡われた麻績王がこの地に配流されたという伝説のある所をみると、イラコの誰と推定されるとし、イラコは組砂の意で、浜の砂か大きかったので名を負うた、といBつのである。柳田国男は「イタカ及びサンカ」(『定本柳田国男集』第四巻)で、つぎのように述ぺている。常陸の潮来の地名に関する古風土記の説は、固より一の小説に止まほとんれり。之を論ずるは殆と無用の業なれど、痛く殺しっと謂へりとて、之をイタクと称すと云ふは口合としても拙劣E不自然なり。此地は夙に水陸の駅次として、船車の輯湊する所下級の亙女が土着して生