ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
原始・古代えん。民に募りて穀を出さしめ鎮所に運搬する事は、道の遠近を程りて差を為し委輸すること、遠きは二000削(石)、次は三000ょ桝、近きは四OOO削を以て外従五位下授けんと。奏するを可しとEしたまう。其れ六位己下八位巳上に至るまで程の遠近に随いて運穀の多少、亦差有り(『続日本紀』)延暦八年(七八九)六月九日の征東使の報告には、征討軍二万七四七Oしちょう人の食糧を運ぶのに輔重が一万二四四O人も必要である。これらの輔重が一度に運ぶ精は、六一二五石になる。ところが兵士二万七四七O人が一日に五四九石消費するから、それだけではわずか十一日しかもたないというのである(『続日本紀』)。つまり、兵士一日の所要量は糖二升の計算になる。また一人が五斗ずつ運んだことになる。}れからみても、蝦夷征討は兵士の徴発だけでなく、多くの軍棋と輸送の人員を必要としたのである。そのため、早くから地方の豪族に協力をよびかけていたのである。陸奥国の鎮所(多賀城)に軍棋として、私穀を運輸した者には位を授けようというのである。鎮所までの距離が「遠」の場合は二OOO石、「中」の場合は三OOO石、「近」の場合は四OOO石で、外従五位下を授けることにしたのである。}の勧誘に応じて、養老七年(七二三)二月十一日、常陸国那賀郡大領外正七位上宇治部直荒山は、私穀三OOO石を陸奥国の鎮所に献じ外従五位下を授けられたのである(『続日本紀』)。奈良時代初期に、私穀三OOO石を蓄積した{子治部直荒山の財力は注目に値する。さらに問題なのは、三OOO石の穀を陸奥国の鎮所まで私力で運んだことである。さきの計算でいくと、三OOO石を運ぶのには六OOO人が必要なのである。しかもこの場合は、精ではなく穀であるからさらに重いわけである。馬で運んだことも考えられるが、駄送のための馬を宇治部直荒山がそれほど集められたとは恩われない。また六O18200人もの農民を個人の利益のために使役することもできなかったろう。そこで那珂川河口からの船による輸送が考えられるのである。那賀郡の大領として郡街で政務をとっていた荒山は、郡街近くの那河川を利用し私穀三OOO石を舟に積んで平津(水戸市平戸)まで下り、大船に積みかえて陸奥国の鎮所まで漕送したのではないだろうか。平津から陸奥国の鎮所までの船賃は、荒山が負担したわけである。どれくらいの船賃を支払ったかは明らかでないが、『延喜式』主税下には、太宰府の博多津から難波津までの船賃は、「石別五束。挟抄六十束。水手四十束」とある。したがって、三OOO石ではかなりの船賃となるのである。天応元年(七八一)正月五日、下総国印矯郡大領外正六位上丈部直牛養と常陸国那賀郡大領正七位下宇治部全成は、軍根を献じて外従五位下を授けられている(『続日本紀』)。彼らも私穀を陸奥国の鎮所まで運んだのあぜみ也とであろう。丈部直牛養は利根川を舟で下り、河口の「安是の湖」から漕送し、{子治部全成は那岡川を舟で下り、平津から陸奥国の鎮所に潜送したことが考えられる。また十月十六日にも、尾張、相模、越後、甲斐、常陸などの諸国の一二人が私力で軍糠を陸奥に運輸し、位階を加えられている。『続日本紀』神亀元年(七二四)二月二十二日条に、従七位下大伴直南淵麻目、従八位下錦部安麻呂、無位烏安麻呂、外従七位上角山君内麻呂、外従八位下大伴直国持、外正八位上壬生直国依、外正八位下日下部使主荒熊、外従七位上香取連五百島、正八位下大生部直三穂麻呂、外従八位上君子部立花、外正八位上史部虫麻目、外従八位上大伴直宮足らが、私穀を陸奥国の鎮所に献じて外従五位下を授けられたことがみえる。おそらく、私穀を漕送した者が多かったにちがいない。