ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

蝦夷征討をめぐって第6章宝亀十一年(七八O)七月二十二日の光仁天皇の勅には、蝦夷を討つために坂東の軍土を徴発し、来たる九月五日を限って陸奥国多賀多賀城政庁の復元(r多賀城と古代東北』より)城に赴き集らせること。その軍棋は官に申して送らせること。そのため「路の便近い」下総国の精六000石、常陸国の精一万石を割いて、来たる八月二十日以前を限って軍所に運輸することを命じている(『続日本紀』)。「路の第1 -74図便近い」とは、「便利な路、近道」の意味である。常陸国と下総国は陸奥国にもっとも近かったのである。そオもにしても、下総国の糠六OOO石、常陸国の精一万石を陸奥国の軍所に運ぶのは容易なとではない。当時、精は五斗ずつが一包みとなっていたから、一人が五斗ずつ運ぶとなると、下総国では一万二OOO人、常陸国では二万人の役夫が必要となる計算である。合計三万二OOO人もの役夫が多賀城まで歩くとなると、彼らの食糧だけでもたいへんである。一人一日精二升を食ぺるとすれば、一日で六四O石の精を消費することになるのである。そこで、」のときも船による運輸が考えられるのである。天応元年(七八一)二月三十日には、穀一O万石を相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸などの国に命じて、陸奥国の軍所に潜送させている(『続日本紀』)。}のときは精でなく重い穀であり、完全に船で運んだとが知られる。それにしても一O万石の穀を運ぶのであるから船の数も相当なものであったろう。常陸国では}の穀をどこから船に積んだのであろうか。国街や郡街の不動倉に備蓄されていた穀を送ったとすれば、水運に便利な郡の穀を使ったにちがいない。延暦九年(七九O )閏三月四日には、蝦夷を征するために革甲二000領を、東海道は駿河以東、東山道は信濃以東の諸国に造ることを命じており、延暦十年十月二十五日には、東海・東山二道の諸国に命じて、征箭三万四五OO余具を作らせている(『続日本紀』)。最近発掘調査された石岡市鹿の子C遺跡は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての国街工房跡で、漆紙文書をはじめ多数の墨書土器、鉄製品、輔羽口、砥石、鉱津や銅製鋳帯具などが出土している。また連房式竪穴遺構、竪穴住居跡、工房跡、掘立住建物跡、溝跡、道路跡が発掘されている。とくに数多い鍛冶工房群の存在は、}の工房で大量の武器製造が行われていたとを物語る。宝亀から延暦期にかけては、大規模な蝦夷征討が展開された時期である。大量の漆の使用などを考えると、弓矢、革甲などの武器類が生産され陸奥国に送られたのであろう。武器も船による輸送が考え183