ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代られるのである。延暦期に入ると、軍棋の生産と輸送が頻繁となる。延暦九年(七九O)閏三月二十九日には、東海道は相模以東、東山道は上野以東の諸国に勅Eして、蝦夷を征するために軍槙一四万石を乾し備えさせている。また延暦十年十一月三日、さらに坂東諸国に命じ、軍棋の精一二万石を用意させたのである(『続日本紀』)。延暦二十三年(八O四)正月十九日にも蝦夷を征するために、武蔵、上総、下総、常陸、上野、下野、陸奥などの諸国に命じて、精一万四一三五石、米九六八五石を陸奥国小田郡中山柵に」れらの軍棋の輸送にも、担夫による陸路運ばせている(『日本後紀』)。の輸送のほかに水運によるものもあったと思われる。大化改新後、太平洋岸沿いの海道の蝦夷経略が注目され海道の蝦夷と鹿島神始めると、鹿島社の地位も大いに向上する。『常陸国風土記』によると、神戸はもとは八一戸であったが、孝徳天皇のとき五O戸を加えられ、持統天皇四年(六九O)に二戸を減じて六五戸になったとある。また天智朝に初めて使いの人を派遣して、神の宮をつくらせ、それ以来修理改築が絶えたことがないとあるように、国家の尊崇をうけるのである。蝦夷征討には神仏の加護が必要とされた。『常みらの〈ちあきた陸国風土記』多珂郡道前の里飽田の村の条に、国宰川原宿禰黒麿のときいわがきに大海の海辺の石壁に、観世音菩薩の像を彫ってつくった。いまものっている、とみえる。戦争に際し、観音を念ずれば危害を免れるという考えが大化改新前後ふもんぽんのころから広まっていた。『観音経』(法華経巻第七、観世音菩薩普門品おかの第二五)の一節に、「或は悪人に逐はれて、金剛山より堕落せんも彼観音あたかさしう一きんの力を念ずれば、一毛も損すること能はざらん」「或は棚鎖に囚禁せら色うかいこうむれ、手足に紐械を被らんにも彼観音の力を念ずれば、釈然として解脱すそうしようかんしょへることを得ん」「諦訟して官処を経、軍陣の中に怖畏せんにも彼観音のうらみことごと力を念ずれば、衆の怨悉く退散せん」などとある語句が信じられていたのである。『日本霊異記』には、推古天皇のとき、高句麗に学問をしぎようぜんに行った行善という法師が、184まもなく高句麗の滅亡にあい、さまよって河辺に至り観音を念じたら、老翁が船で迎えにきて向こう岸に達するこbeepとができたとある。また、伊予国(愛媛県)越智郡の大領の先祖越智直は、くだら斉明天皇七年(六六一)に百済救援のために派遣され、唐兵の捕虜になったとき、同志八人が船をつくり、観音を念じたので、無事に筑紫(福岡県)に帰れたといわれる。『観音経』には、戦争のとき敵の捕虜になっても、観音を念ずれば救われると記されているので、戦争に参加する人びとの信仰を集めていたのである。『三代実録』貞観十五年(八七三)十二月十七日の条には、陸奥国の停夷(捕虜になった蝦夷)が国境近くに満ちて、反乱を起こす恐れがあるので、五大菩薩像を国分寺に安置して、蝦夷の野心を和らげたいという陸奥国の奏言がみえる。平安時代になっても、観音信仰が蝦夷の鎮圧に重要な役割を果たしていたのである。したがって、道前の里に観世音菩薩像が彫造されたのも、蝦夷征討と密接な関連があったのである。承和年間(八三四1八四七)以前に、初めて官社に登録された年代の確かな神社を全国的に調べてみると、宝亀・延暦年間(七七Oi八O五)に五五社を数えることができる。そのうち五O社までが東海道諸国および上野・陸奥両国に鎮座している。)の事実は蝦夷征討にあたり、諸神のこれらの諸神のなかにあって、鹿えのうらのつ島神は別格の存在であった。『常陸国風土記』によれば、榎浦之津の駅はゆまづかい家から常陸路に入った伝駅使らは、まず口と手を洗い、東に向いて香島加護を必要としたことを示している。の大神を拝したとある。また鹿島神宮参拝のための板来駅家さえ特別に