ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

原始・古代で、「佐伯」は服属した蝦夷を指すのである(志田誇一「茨城の県名をめぐって」『常総の歴史』第六号)。『常陸国風土記』の行方郡や茨城郡の条に、佐伯討伐の話が地名の由来となっているのは、風土記が編纂された養老年間(七一七i七二三)当E時の常陸国および国府の情勢と関係がある。和銅・養老期は蝦夷征討のあぜち真最中であった。養老四年(七二O )九月には、蝦夷が反乱して按察使上毛野朝臣広人を殺害するという衝撃的事件がおこっている。}の事件は常陸国街の官人たちに緊迫感を与えたにちがいない。その緊迫感が蝦夷征討の奉幣や物資輸送連絡のために設置された鹿島神宮参拝道の道筋の村里の地名の由来に、佐伯などの討滅の話を結びつけることになったのである。鹿島神は藤原氏の氏神ともされていた。宝亀八年(七七七)七月、内大臣藤原良継が病気になり、平癒を祈るため氏神鹿島神が正三位、香取神が正四位上に叙されている(『続日本紀』)。勢いに乗った鹿島神宮司は、宝亀十一年十二月、良民と知っていながら霊異にかこつけて、七七四人もの農民を神賎として神戸に編入したのである(『続日本紀』)。『三代実録』貞観八年(八六六)正月二十日条に、鹿島神宮司の奏言が記されていぴょうえいしんしめはる。それによると、鹿島大神の苗育神は陸奥国の菊多、磐城、標葉、行わたりしかまおしか方、字多、伊具、百一理、宮城、黒河、色麻、志太、小田、牡鹿の一三郡にわたって都合三八社に杷られたのである。これらの諸郡は、いずれも太平洋岸に属している。}れは海道方面の蝦夷征討に鹿島神が必要とされたことを物語るばかりでなく、鹿島神の性格が海もしくは、海沿いの地と関係があったことを示している。延暦年間(七八二i八O六)になると蝦夷征討の戦場は、海道方面からさわ蝦夷の本拠地である胆沢方面の奥地に移った。それとともに蝦夷の大反撃をおつけて、彼我ともに総力戦の様相を呈し始めた。国運を賭しての大戦争になってくると、奉戴する神の性格も変わってきた。東国の海沿い186の地域に信仰圏をもっ鹿島神に代わって、日本武尊や日本武尊の東西平定に神威を示した伊勢神宮が登場する。日本武尊を祭神とする神社のなみようじんかで、『延喜式』に名神大社に列せられているのは、常陸国那賀郡吉田神社、近江国栗太郡建部神社、陸奥田苅田郡苅田嶺神社、同国柴田郡大高山神社の四社である。}の四社のうちで、建部神社が官社となったのは貞観二年(八六O )である。吉田、苅田嶺、大高山の三社が初めて官社に列したのは、承和年間(八三四1八四七)以斗別である。とくに吉田神社が神祇官の神名帳に登録されたのは、延暦年間と考えられる。全国で日本武尊を主祭神とする神社のなかで、由緒や歴史の古さからいって吉田神社は第一にあげられるのである。吉田神社の軍神としての崇敬のあっさは、やがて鹿島神宮と肩を並ぺるほどになるのである。蝦夷との戦いが北上山地の内陸部に進むと、鹿島神の霊験は及ばぬものとなったのである、また、鹿島神に代わって天台宗の活躍も目立ち始めるのである。海道の蝦夷鎮定後は、朝廷の人びとも鹿島神から鹿島神宮司の動揺離れぎみであった。弘仁二年(八一)蝦夷征討が終了してからは、陸奥・常陸の海道の駅家も廃止され、鹿島の苗喬神への奉幣も中絶する。弘仁六年(八一五)には、鹿島神宮参拝のために特別に設置された板来駅家も廃止になった。}れは鹿島神宮司にとっては、大きな打撃であった。たまっくりのさくのゅのいしのかみ承和四年(八三七)、陸奥田玉造塞温泉石神が噴火して山が焼け、谷ょうげんものうが埋まるという異変が起きた。農民の聞に妖言が広まり、栗原・桃生郡以北では停囚(服属した蝦夷)の反乱のおそれさえあった。承和六年(八